tag:blogger.com,1999:blog-86419335321507205502024-03-13T12:56:42.320+09:00鷗(かもめ)~鷗外逍遥 森鷗外が小倉に軍医部長として赴任した際の小倉日記を紐解くと、北方衛戍病院をしばしば訪れていることがわかります。この病院は、現国立病院機構小倉医療センターです。このブログは鷗外と当院(小倉医療センター)や小倉との関係を中心に、興味ある事項についての忘備録のつもりで綴ります。
内容に誤りがあったり、何か情報があったりいたしましたら、コメントで寄せていただけるとありがたいです。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.comBlogger96125tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-43953542266238518152013-02-18T16:49:00.001+09:002013-02-18T16:49:32.372+09:00衛生学 鴎外がドイツ留学をしたころ、衛生学というのは先端の学問であった。鴎外の留学の目的も、その公衆衛生学を学ぶものであり、近代衛生学の父と呼ばれる、ペッテンコーファーの元を最初に訪れている。ミュンヘン大学に最初の公衆衛生学講座を開き、初代教授となったペッテンコーファーのfirst nameであるマックスにちなんで、鴎外の孫に真樟(まくす)と命名したとも言われている。<br />
<br />
当時のヨーロッパ大きな問題であった、コレラの流行を、下水道の整備でかなり抑えることに成功したことが彼を有名にしたこととされる。コレラ菌がコレラの原因ではないとの考えや上水道より下水道の整備が大切だとの考えなど、後になって修正せざるを得ない間違いもあったが、衛生学を医学の一分野として確立した功績は大きいだろう。<br />
<br />
鴎外自身も帰国後に下水道の整備を強く訴えていたようだ。山県有朋などが、上水道の整備の方を優先するのに対し、日本において、下水道の整備も重要であることを主張していたとされる。<br />
hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-61460173144742861422013-02-12T13:23:00.002+09:002013-02-12T13:23:46.579+09:00地下 北九州において、戦時中には地下建築物や地下通路などがあったと聞く。空からの攻撃を逃れようとすると、どうしてもそうなるものだろう。古代ヨーロッパにおいては、都市の隅々に水を供給できる水路を作り上げ、その上に、つまり2階に町を作り上げたと聞く。だからイギリスでは日本で言う1階のことをground floorと呼ぶのだとか。そして、フランス語やドイツ語でもそうらしい。恐らく複雑に入り組んだ地下通路が今でも存在しているのだろうが、戦略的機密に属する事項であろう。そういえば、ヒトラーが地下通路を通って逃げたなんてことも、だからこそ信憑性を感じてしまうのでしょうね。<br />
<br />
当然、東京にもそのような構造物が存在していたと考えるのが自然だろう。<br />
<br />
そこで、鴎外が作成した東京方眼図を検討した人がいる。そして、その地図には帝都の地下経路が隠されているというのだ。ちょっとその本を読んでみようと思っている。どうも実際にはない地名が加えられていたり、補助線のような直線が加えられたりしているらしい。<br />
<br />
東京方眼図のことを知ったときには、なぜ鴎外が地図なんか作ったのだろう、と少し奇異に感じた。しかし、軍の中枢に近いところにいた森林太郎であれば、そして軍機密を地図に隠しこむということであれば、すこし納得しやすいような気がする。<br />
hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-43673141021848686342013-02-04T14:49:00.000+09:002013-02-04T14:49:18.601+09:00唯識論<br />
鴎外が安国寺の玉水俊虎から<br />
唯識論の講義を受けたとされている<br />
<br />
唯識論は大乗仏教の根本思想とも言われ<br />
空の概念に繋がるものらしいのだが<br />
その唯識論を学んだことが<br />
鴎外自身の思索にどのような影響を与えたのだろうか<br />
<br />
鴎外は特定の宗教を持たなかったとされているので<br />
仏教のもつ宗教 哲学 科学 の三つの側面のうち<br />
恐らく哲学や科学の面を吸収しようとしたのだろうと推測するが<br />
鴎外自身が唯識論に言及したような文章は残されているのだろうか<br />
<br />
親しく接した玉水俊虎からも<br />
その彼が語る唯識論からも<br />
きっと何らかの影響を受けていたと思うのだが<br />
<br />
hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-39224660796715005332013-01-11T12:23:00.004+09:002013-01-11T15:54:27.604+09:00黒木為禎(ためもと)<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiW_QbIWHorfOdEDroARlowQsT80_He41nDNoJrVwjqAX0rD22xVDaf8uNJ4fow6s-B5r2E3TTVcgCPR6b4Y-ncvmAaFE8AmxxyT7JiFtDzN7CqarNN-DZhU9zJZi9DrAkNfC09C4V-Ok4/s1600/kurokiTametomo.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="200" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiW_QbIWHorfOdEDroARlowQsT80_He41nDNoJrVwjqAX0rD22xVDaf8uNJ4fow6s-B5r2E3TTVcgCPR6b4Y-ncvmAaFE8AmxxyT7JiFtDzN7CqarNN-DZhU9zJZi9DrAkNfC09C4V-Ok4/s200/kurokiTametomo.jpg" width="191" /></a></div>
黒木為禎が西部都督(小倉)にいるころ、鴎外も赴任したことになる。薩摩藩士の子供で、日清戦争の時には第六師団長として出兵している。日露戦争においては第一軍司令官となる人物であり、ロシアとの戦争が避けられないとの見方が出てきていた1900年頃に黒木近衛師団長が小倉にいたということは、やはり戦争という面から小倉がかなり重要な位置を占めていたことが窺われる。<br />
<br />
小倉日記にはあまり出てこないので、鴎外との交流はそれほどなかったのかもしれない。日露戦争では、その勇猛果敢な戦術から、ロシア軍からはクロキンスキーとあだ名され、黒木率いる軍隊はくろき軍として恐れられていたという。<br />
<br />
またロシア軍を破った軍人として、アメリカでは乃木などより有名だったようだ。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-83711761050150656072013-01-10T11:36:00.001+09:002013-01-10T11:36:13.831+09:00つながり 鴎外は多分野で足跡を残した人物であり、その人生を語る書物も多く存在する。それらを読んでみると次から次と有名人が出てくるし、その流れは幕末にさらには江戸時代へも繋がっていく。一人の人生が、多くの出会いと別れ、繋がりの中で織り成されていくものである、ということに改めて思い至る。<br />
<br />
わが身を振り返ってみると、有名無名の差は大きいとはいえ、やはり数え切れぬほどのつながりの中、今という時代を漂い、生き、生かされていることを感じる。<br />
<br />
研究者と呼ばれる人の中には、誰それの研究が専門、という具合に、ある人物の足跡を研究する人がいる。これまで、そういう研究に何の興味もなかったが、一人の人物を研究することはその一人にとどまらないことが少しわかってきた。一人の人物をとおして、その人の生き様を思い、生きた時代を感じ、多くの人物についても研究し、結局人生そのものについての思索を深めていくということになるのだろう。<br />
<br />
このようなブログを立ち上げたのも何かの縁。もう少し鴎外について、学んでみたいと思う。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-13937004811504413362012-12-31T14:15:00.001+09:002012-12-31T14:15:43.021+09:00ポンペ・ファン・メールデルフォールト ポンペは幕末に西洋医学を日本に伝えたとして歴史に名を残すオランダ人である。ユトレヒト大学卒業後間もなく日本へ派遣された彼は、大学の講義ノートを全て日本に持ってきた。臨床の経験は皆無であっても、解読困難なオランダ語の原書をひっくり返しながらつまみ食い的な西洋医学知識しか有していなかった当時の日本にとっては計り知れない恩恵だったであろう。化学や物理などの基礎から内科、外科に至る系統的講義を、ポンペ一人で行うという超人的ことをやってくれたわけである。<br />
<br />
このポンペの日本における一番弟子が松本良順である。実は鴎外の父親である森静泰はその松本良順の弟子に当たるわけで、ポンペからみると孫弟子と言えるわけである。<br />
<br />
鴎外はドイツ留学の期間中、語学力をかわれて赤十字の国際会議に随伴している。そのさい、このポンペと出会い、言葉を交わしている。ポンペにとっては、自身の若き情熱を傾けた日本での仕事を思いだすとともに、目の前の鴎外も自身の仕事に繋がっていることに深い感慨を覚えたのではないだろうか。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-71626942838074461962012-12-27T10:48:00.000+09:002012-12-27T10:48:17.425+09:00水質検査 鴎外はドイツ留学中に数箇所で勉強をしている。その一つがベルリン大学である。当時は細菌学の黎明期で、その世界的リーダーであったと思われるコッホの下で学んだわけである。同時期、北里柴三郎もその研究室に身を置いていた。<br />
<br />
鴎外に与えられた最初のテーマは、ベルリン下水道の細菌検査だった。その成果については分からないが、そこで身に着けた水質への問題意識はその後も鴎外の中に流れ続けたのだろう。小倉においても水質に関する公演をしたり、紫川の上流まで水質調査を行いに赴いたりしている。<br />
<br />
ベルリンで水質に関する研究をするおりには、当然その後小倉に赴任することになろうとは鴎外も思っていないだろう。しかし一人の人生を概観すると、無駄というものはなく、全てはどこかに関わっているものなのだろうと思う。今、此処、の一期一会が大切なる所以であろう。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-33727721178610670392012-12-25T15:52:00.001+09:002012-12-25T15:52:29.330+09:00森白仙 鴎外の祖父、森白仙は津和野藩の典医であった。参勤交代に従い江戸まで来ていたが、体調を崩したようだ。典医の役目は、殿に付き従い、体調を守ることである。付き従えなければその役目を果たしたことにはならない。<br />
<br />
役目を果たせなければ、家禄が削られるという不名誉を受けることになる。そこで体調不良のまま、無理に帰途についた。しかし土山宿(東海道53次の49番目の宿)で病状が悪化し、亡くなっている。その後実際に森家の家禄が減らされたようである。<br />
<br />
この祖父の病気は脚気であったといわれ、脚気衝心で亡くなったたのであろう。日清戦争や日露戦争で、多くの兵士を脚気で死に到らしめてしまった帝国陸軍軍医部のお偉方に名を連ねた森鴎外の生涯を考えると、皮肉なことである。<br />
<br />
この白仙の墓を、鴎外は小倉赴任中の明治33年3月に一度だけ訪れている。東京出張への途次である。松本清張は、「両像・森鴎外」の中で、祖父が病気により役職を果たせなかった無念を、鴎外自身が感じている左遷への失意に重ね、訪ねてみる気になったのではないかと書いている。<br />
hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-57081160268025239962012-12-20T14:21:00.001+09:002012-12-20T14:21:30.658+09:00軍都 小倉に第十二師団を設置するにあたり、小倉の南にある北方の地において、40万坪以上の土地が買い上げられたという。その土地には、様々な施設が作られるわけであり、建設業、土木業、工業、鉱業、商業など様々な産業が大いに刺激された。<br />
<br />
寒村であった小倉が、軍都へと変貌を遂げていくわけである。鴎外が赴任する数年前から、大いに活況を呈し始めたばかりの町は、新旧入り混じった状況であったろうと思われる。また、周囲からいろいろな人間が流れ込んできたであろうから、治安が良いとはいえない状況も多かっただろうと想像してしまう。<br />
<br />
その後、第二次世界大戦が終わるまで、北九州地域は軍都としての色彩が濃かったのではないかと思う。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-66089873017440109282012-12-18T02:50:00.000+09:002012-12-18T02:50:51.421+09:00ベルツ水 鴎外の大学の恩師の一人であるベルツは、ベルツ水という化粧水を創った人物としても有名である。箱根の富士屋ホテルに妻の花と宿泊中、女中の手が荒れているのを見た。花によると、手荒れの薬はヘチマ水くらいしか日本にはないと聞き、肌荒れ用化粧水として、グリセリン、アルコール、水酸化カリウム、芳香性の精油、蒸留水などを混合して作ったとのことである。<br />
<br />
妻の花は、荒井はつ(ハナ、花、花子)。ベルツが29年の日本滞在を終えてドイツへ帰国する際には、共にドイツへ渡ったとのこと。<br />
<br />
<br />hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-65770073064783189152012-12-15T20:16:00.001+09:002012-12-15T20:16:57.122+09:00森篤次郎<br />
<div class="MsoNormal">
<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiEiF9zTq3peUGe4qRAtJ-znUrSP3aGYbWjey7GdaBrGW56V3fmt4xm78L7Sot5Q0K6u9cVqLJnlqn8Gy-RHsPkoo8ftC5T1hZWiUAhYPCZ6L33qH0BCBAyVDwD-eFYS-DjEXisvLKbjHU/s1600/tokujiro.jpg" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiEiF9zTq3peUGe4qRAtJ-znUrSP3aGYbWjey7GdaBrGW56V3fmt4xm78L7Sot5Q0K6u9cVqLJnlqn8Gy-RHsPkoo8ftC5T1hZWiUAhYPCZ6L33qH0BCBAyVDwD-eFYS-DjEXisvLKbjHU/s1600/tokujiro.jpg" /></a></div>
<div class="MsoNormal">
<br /></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝","serif"; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">明治</span><span lang="EN-US">32</span><span style="font-family: "MS 明朝","serif"; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">年</span><span lang="EN-US">10</span><span style="font-family: "MS 明朝","serif"; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">月</span><span lang="EN-US">18</span><span style="font-family: "MS 明朝","serif"; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">日 …篤次郎の東京印刷株式会社工場顧問となりし…</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝","serif"; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;"> (小倉日記)</span></div>
<div class="MsoNormal">
<br /></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝","serif"; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">~~~~~~~~~~~</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal">
<br /></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝","serif"; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;"> 鴎外の弟(次男)が森篤次郎である。鴎外と同様、帝国大学医科大学を出て、医師となっている。また、幼少時より馴染んだ芝居見物が一生の趣味となり、歌舞伎の劇評家として有名であったという。学生時代も芝居見物故に大学への出席日数が少なかったらしい。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝","serif"; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: 'MS 明朝', serif;"> 劇評家としては、三木竹二という名で文を書いていたようで、彼の仕事は歌舞伎の世界では大きなことだったとされているようだ。写真はWeb上で見つけてきたものだが、鴎外と似ているような似ていないような、といったところか。40歳で亡くなっている。</span></div>
hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-81253391242518825542012-12-13T21:03:00.000+09:002012-12-13T21:03:19.743+09:00船旅<table cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="float: left; margin-right: 1em; text-align: left;"><tbody>
<tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiHkLo9bt4PLCXNLvAIZDCvvGN0pixi3WzAzxSkRu8VuQ0jBihZrfYj2zwQnDIIHaZSsdGGALiRhnQcWh2G5NU5hRmN_EFbZyV1GYqp9f7OO4_1X8rpQGlJitvgAvQZ1MHGP0tmNc4bmLY/s1600/DSC04541.JPG" imageanchor="1" style="clear: left; margin-bottom: 1em; margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" height="145" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEiHkLo9bt4PLCXNLvAIZDCvvGN0pixi3WzAzxSkRu8VuQ0jBihZrfYj2zwQnDIIHaZSsdGGALiRhnQcWh2G5NU5hRmN_EFbZyV1GYqp9f7OO4_1X8rpQGlJitvgAvQZ1MHGP0tmNc4bmLY/s320/DSC04541.JPG" width="320" /></a></td></tr>
<tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">森林太郎がドイツ留学へ向かう際の航路</td></tr>
</tbody></table>
鴎外は医学部卒業後のドイツ留学を強く希望していたとされる。明治になりドイツ医学を第一とする政府の方針故なのだろうか。<br />
<br />
ドイツに向かうとなれば、当然船。途中寄港地はあるにしろ、2ヶ月近くの船旅というのも大変そうである。<br />
<br />
帰る時にも当然同様の時間がかかるわけだ。もちろんお金だってかかる。<br />
<br />
そんな船旅をしてまで、エリーゼ・ヴィーゲルトは日本までやってきた。ある程度の約束が、林太郎とのあいだでなされていなければ、来ないだろうと思う。エリーゼ・ヴィーゲルトがどこの誰かはまだ特定されていないようであるが、舞姫で描かれた踊り子のような身の上ではなかったとされているようだ。<br />
<br />
また、エリーゼの旅費を一体誰が出したのかも、霧の中らしい。林太郎が捻出したのではないかと推測するものもいるようだ。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-70147627840512169622012-12-11T21:33:00.001+09:002012-12-11T21:33:52.772+09:00ノート<table cellpadding="0" cellspacing="0" class="tr-caption-container" style="float: left; margin-right: 1em; text-align: left;"><tbody>
<tr><td style="text-align: center;"><a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBvOqspuhMmB-_Xpd6nYSNSzMJxMt1fF0zxLNFAN8f0gvbFuNkPcbGXCs8TbtW9H9b5gcx5makcQsI-pmTFTpc5AaYJc5ry7jLHNJONmWrHCM8cHjXmYr29KuNEr3a-NOsTGa25MU6X1o/s1600/DSC04551houtai.JPG" imageanchor="1" style="clear: left; margin-bottom: 1em; margin-left: auto; margin-right: auto;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhBvOqspuhMmB-_Xpd6nYSNSzMJxMt1fF0zxLNFAN8f0gvbFuNkPcbGXCs8TbtW9H9b5gcx5makcQsI-pmTFTpc5AaYJc5ry7jLHNJONmWrHCM8cHjXmYr29KuNEr3a-NOsTGa25MU6X1o/s320/DSC04551houtai.JPG" width="296" /></a></td></tr>
<tr><td class="tr-caption" style="text-align: center;">医学部時代の鴎外のノート</td></tr>
</tbody></table>
現代の医学部の講義の中では、整形外科の教科書に包帯法のことは出てくると思うが、その実習などは行われない場合が多いのではないかと思う。<br />
<br />
包帯は、創の被覆保護、圧迫、固定、患部の安静保持その他に使用される。現在でも看護科の授業では実習があるのかもしれない。<br />
<br />
鴎外の時代、特に軍医にとっては、包帯法は必須の授業であったであろう。外傷治療の進歩は、歴史的に見ても戦争中に進歩したと言われており、外傷の治療と包帯法は大いに関係があるからである。<br />
<br />
鴎外のこのノートの記載は、まさに包帯法についてであろうと思われる。ドイツ語を綺麗な字で書いていることとともに、丁寧な絵が印象的である。その頃の学生は、みなこれほど丁寧にノートをとっていたのであろうか。それとも中には、良さそうなノートを借りて写す輩もいたのであろうか。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-91708514214080593362012-12-11T16:13:00.001+09:002012-12-11T16:13:14.029+09:00肝膿瘍明治32年8月5日 歩兵大尉水町恒一郎の葬を送る。肝膿瘍に死し…<br />
<br />
~~~~~~~~~~~<br />
<br />
細菌感染に対して抗生物質を使うのは、現代では当たり前となっている。しかし、初めて抗生物質が発見されたのは1929年のことであり、明治32年には存在しなかった。怪我などで細菌が体内に入れば、それで命取りになることは決して稀なことではなかった。<br />
<br />
肝膿瘍となれば、抗生物質のある現代でも治りにくい場合が少なくない。上記の大尉は剖検(解剖)を行われたこともあり、その葬儀に鴎外も参列したのであろうか。その剖検自体に鴎外が関わったかどうかはわからない。<br />
<br />
鴎外のことを調べていると、なんだか鴎外もつい最近の人物のような気がしてくるのだが、抗生物質のない時代と考えると、やはり随分昔の話なんだと思う。<br />
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ちなみに、初めて発見された抗生物質はペニシリンで、フレミングによって青かびから単離されています。鴎外が亡くなってから約7年後のことです。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-78219298129805682692012-12-10T22:14:00.001+09:002012-12-10T22:14:28.973+09:00福島安正明治32年7月28日 福島安正の演説するところ列国均勢の…<br />
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福島安正が小倉に来て演説をしたのか、どこかでした演説の報告があったのかははっきりしないが、その内容は鴎外にとっても、「耳を傾くるに足るものあり」と感じる内容であったようだ。恐らく福島自身が見聞した内容を交え、今の西欧情勢を語ったものだったのであろう。<br />
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福島安正は陸軍軍人で、単独で馬に乗って冬のシベリアを横断したことで知られている。ロシアが極東への物資輸送を考えシベリア鉄道の着工を行うとの情報を実際に見て確かめるという意図のある単騎行であり、諜報活動が目的であった。490日に及ぶ行程で得た様々な情報は、当時の軍部にとって非常に貴重な内容だったとされる。<br />
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当時、極寒のシベリアを単独で横断したものなどはおらず、ロシアの各地では歓待されたりもしたようである。ベルリン、モスクワ、シベリア、ウラジオストックと約1万4千Kmを490日という時間をかけ、20頭以上の馬を乗り潰し敢行したという、とんでもない人物。今なら冒険家として紹介されても良い人物である。<br />
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その単騎行からまだ6年程度しか経過していない時期の彼の話は、まだまだ新鮮だったであろう。ちなみにこの翌年の1900年(明治33年)4月には、陸軍少将として西部都督部(小倉)に赴任している。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-62181848001436166342012-12-09T09:24:00.001+09:002012-12-09T09:24:36.834+09:00地図「明治32年6月29日 夜吉田茂太郎至る。小倉地圖稿を示す。同年7月1日 吉田の地圖成る。」<br />
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吉田は福岡出身の軍医で、日清戦争の時は鴎外の部下だったとのこと。29日に作成中の小倉の地図を鴎外に見てもらいに来たのだろう。地図を作ることを鴎外から指示されて作ったのかもしれない。新任の軍医部長として、その地の地勢を知ることをまず第一としたのだろうか。その2日後の7月1日に完成している。<br />
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鴎外は東京に戻ってから東京方眼圖という地図を作成している。地図を方眼に区切って表す手法は、当時の日本にあっては珍しいものだったらしいが、東京方眼圖の完成品は販売にまでいたったとのこと。地理を知るということに、鴎外は重きを置いていたのでしょう。<br />
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鴎外は完成した小倉地圖を片手に、小倉にある軍施設などを視察して回ったのでしょう。その地図は今東大に保管されていると聞くが、一度見てみたいものである。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-81515866355435947752012-12-08T22:56:00.001+09:002012-12-08T22:56:53.642+09:00麥酒 日本におけるビールの歴史はよくわかりませんが、もともと入ってきたのはイギリスのビールであったろうと思います。しかし明治になりドイツビールが入り、プロシアがフランスに戦争で勝ったこともあり、ドイツかぶれといってもいいような世相も反映し、ドイツビールが主になったのでは思われます。プロシア軍の伝統的儀式とされるビールの一気飲みも、当時のドイツへ留学した帝国陸軍将校などによりもたらされたことでしょう。<br />
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森鴎外もそのころのドイツに留学しています。自分はビールをせいぜい2ℓ程度しか飲めないのに対し、ドイツ人が12ℓ程度を飲んでしまうのに驚いたようです。そして鴎外の書いたものには、ちょくちょくビールが出てきます。<br />
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小倉日記の中にも「麥酒を酌みて時事を談ず」などという記載があります。そのビールは日本で作られたものなのか輸入ものなのかは判りかねますが、きっと安いものではなかったでしょう。<br />
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またうたかたの記では、陶器製の蓋付ビールジョッキの事なども書いています。さて時事を談じたときはどのような器でビールを飲んだのでしょうか。東京の森鴎外記念館には、鴎外のものとして蓋付ビールジョッキを展示していましたが、小倉にまで持ってきていたのでしょうか。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-85682407412587793692012-12-05T01:28:00.000+09:002012-12-05T01:28:33.738+09:00翁草<br />
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<span style="font-family: 'MS 明朝', serif;"> 国語の教科書で読んだ鴎外の小説の中に、高瀬舟がある。この小説の題材は翁草という随筆集から得ているという。これは、京都町奉行所の与力を務めた神沢貞幹(</span><span lang="EN-US">1710</span><span style="font-family: 'MS 明朝', serif;">年~</span><span lang="EN-US">1795</span><span style="font-family: 'MS 明朝', serif;">年)が記述したもので、明治38年(1905)に全200巻が刊行されたようである。鴎外はかなり興味を持ってこの随筆集を読み込んだようで、鴎外の書き込みのある本が残されているとのことである。</span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝","serif"; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝","serif"; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;"> 都の大火を記録したものとしては、鴨長明の方丈記が有名であるが、神沢貞幹(杜口:とこう)はそれ以上の筆致で、天明の大火(洛陽大火、1788)の仔細を翁草の中に書き残している。その時の杜口は79歳。火事の火元からその時々刻々の広がる具合まで、恐らく自分の足で取材をして記載したものと思われる。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝","serif"; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝","serif"; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;"> この翁草のなかに、同心が船中で流人と語った内容が記されており、そこから鴎外は高瀬舟を紡ぎ出したわけである。江戸時代に安楽死という概念があるとは思えず、杜口自身がそれを念頭においていたとは考えられないが、そこに鴎外はユウタナジイ(安楽死)の問題を感じ取り小説としたのであろう。そこのところは鴎外自身が<a href="http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/46234_22010.html">高瀬舟縁起</a>の中で語っている。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-85018545673050172132012-12-02T15:52:00.000+09:002012-12-02T15:54:43.084+09:00田山花袋<ruby style="line-height: 16px;"><rb>「渠</rb></ruby><span style="line-height: 25px;">は歩き出した。</span><span style="line-height: 25px;"> 銃が重い、</span><ruby style="line-height: 16px;"><rb>背嚢</rb></ruby><span style="line-height: 25px;">が重い、</span><ruby style="line-height: 16px;"><rb>脚</rb></ruby><span style="line-height: 25px;">が重い、アルミニウム製の</span><ruby style="line-height: 16px;"><rb>金椀</rb></ruby><span style="line-height: 25px;">が腰の剣に当たってカタカタと鳴る。その音が興奮した神経をおびただしく</span><ruby style="line-height: 16px;"><rb>刺戟</rb></ruby><span style="line-height: 25px;">する…</span><span style="line-height: 25px;">息が非常に切れる。全身には悪熱悪寒が絶えず往来する。頭脳が火のように熱して、</span><ruby style="line-height: 16px;"><rb>顳<img alt="※(「需+頁」、第3水準1-94-6)" class="gaiji" src="http://www.aozora.gr.jp/gaiji/1-94/1-94-06.png" style="height: 1em; width: 1em;" /></rb></ruby><span style="line-height: 25px;">がはげしい脈を打つ…</span><span style="line-height: 25px;">腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ。…</span><span style="line-height: 25px;">頭脳がぐらぐらして天地が</span><ruby style="line-height: 16px;"><rb>廻転</rb></ruby><span style="line-height: 25px;">するようだ。胸が苦しい。頭が痛い。脚の</span><ruby style="line-height: 16px;"><rb>腓</rb></ruby><span style="line-height: 25px;">のところが押しつけられるようで、不愉快で不愉快でしかたがない。ややともすると胸がむかつきそうになる。…</span><ruby style="line-height: 16px;"><rb>黎明</rb></ruby><span style="line-height: 25px;">に兵站部の軍医が来た。けれどその一時間前に、渠は既に死んでいた。」</span><br />
<span style="line-height: 25px;"><br /></span>
<span style="line-height: 25px;"> 上は、田山花袋の小説「一兵卒」から抜き出したものである。全文を青空文庫で読むことができる(<a href="http://www.aozora.gr.jp/cards/000214/card1066.html">http://www.aozora.gr.jp/cards/000214/card1066.html</a>)。一人の日本兵士が、戦闘ではなく病気で死にゆくさまが描かれており、その絶望に、短い小説にもかかわらず、読んでいる途中でときに読むのをやめてしまいたくなる。</span><br />
<span style="line-height: 25px;"><br /></span>
<span style="line-height: 25px;"> この兵士の症状は脚気と思われる。脚気から脚気衝心となり死に至ったものであろう。</span><br />
<span style="line-height: 25px;"><br /></span>
<span style="line-height: 25px;"> 田山花袋の名は、文学史では「布団」の作者として出ている場合がほとんどであるが、彼は従軍記者として日露戦争の戦地に赴いている。赴く前の広島で始めて鴎外と知り合うことができ、戦地でもしばしば鴎外と語らう時間を持ったと言われている。日清戦争や北清事変と同様、その日露戦争においても陸軍兵士の多くが脚気衝心で命を落した。その様子をつぶさに見ていた田山花袋であるからこそ、一兵卒という小説をかけたのであろう。</span>hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-76515022974370451782012-11-28T10:40:00.000+09:002012-11-28T10:40:22.532+09:00即興詩人 鴎外が日本語訳した「即興詩人」の初版の前書きに「此譯は明治二十五年九月十日稿を起し、三十四年一月十五日完成す。」と記されている。8年4ヶ月の歳月をかけている。一般のイメージでは鴎外は文豪だが、伝記の類を読んでみると、鴎外はやはり官僚(軍医)であることがプライオリティの第一であったと思われる。その官僚としての様々な仕事の合間に訳出したとなると、その忍耐強さに驚く。翻訳開始後には日清戦争も起こったわけであり、鴎外にも多くの為すべき職務が山のようにあったはずである。<br />
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訳出し終わったのは、小倉で2番目に居した京町の自宅に引っ越して間もなくである。小倉に赴任してからほぼ一年半が経過している。小倉赴任前までに、即興詩人のどの部分まで訳出し終わっていたのかはわからないが、東京にいたときよりは時間が取れたであろう小倉赴任がなければ、ひょっとしたら即興詩人の翻訳終了までにはまだ月日がかかったかもしれないし、翻訳が終了しなかった可能性もあったかもしれない。<br />
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鴎外訳による即興詩人が公になった後、その本を片手にヨーロッパを旅した日本人が数多くあったことを聞くとき、鴎外の小倉着任が与えた一つの大いなる影響を見ることができる。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-9379484305822998142012-11-28T07:21:00.000+09:002012-11-28T10:55:52.506+09:00下痢 門司新報という新聞の明治32年7月14日の記事では、軍医部長の巡視日程として、7月17日に小倉衛戍病院と輜重兵十二大隊をまわる予定と記載されている。ところが小倉日記によると、7月13日ころから下痢が始まり、次第に症状が増悪し、15日の予定の途中からは帰宅して20日まで休んでいる。そのため、当初の予定は実行されなかった。<br />
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当初7月17日の予定だったものは、8月2日に実行され、小倉衛戍病院の視察を行ったことになる。<br />
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下痢の原因については記載はないが、転勤に伴う疲れ、食べ物に当たった、ウィルス性の腸炎などが考えられるだろうか。鴎外は、衛生上の観点からも加熱されていないものは基本的に食べなかったと伝えられているようですが、それでも下痢症になるときはなりますね。独り身で家でうんうん唸っているというのは心細いものだろうが、その間の日記の記載はない。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-4033594274721267132012-11-27T16:19:00.000+09:002012-11-27T16:19:28.985+09:00都督部 都督部というのは、作戦計画、訓練、教育を担当した陸軍の組織で、明治29年に設立された。東部、中部、西部の三つの都督部が存在し、東部は東京、中部は大阪、そして西部都督部が置かれたのが小倉である。天皇に直隷した組織とされ、都督部所在地にある師団は他の師団に比べて上に見られていたようである。<br />
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第十二師団は、そのような位置づけとなり、北清事変が起こり、露西亜との戦いが確実視されていた時代にあっては、軍組織上はかなり重要な師団であったと思われる。ならばその師団の軍医部長としての赴任というのもかなり重要な意味合いがあったと推察される。<br />
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鴎外の小倉赴任が左遷とする場合、日本の西の果てであるとか、第十二師団であるとかから判断している場合が多いようである。しかし実際、この赴任は軍組織としての異動であり、左遷か否かは軍組織としてどうであったかではかられるべきであろう。そのような視点から見るとどうかは、軍組織についての知識がない私には判断できない。ただ、松本清張は、当時の第一(東京)、第四(大阪)、第十二(小倉)師団の軍医部長を見てみると、序列通りの配置であろうと述べている。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-14865649386962667142012-11-26T14:01:00.001+09:002012-11-26T14:01:02.202+09:00赤間関 現在の下関港あたりが赤間関と呼ばれていたようだ。1889年に日本で最初に市制が施行された市の一つとして、赤間関市が誕生したとのことだ。そして1902年に現在の名前である下関市となっている。山口県の瀬戸内にある上関、中の関、に対しての下関と思われる。<br />
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赤間関は赤馬関とも表記されていた関係で、馬関(ばかん)とも呼ばれていた。鴎外がいた頃には、この赤間関には遊郭があったようだ。鴎外の上司であり軍医総監でもあった石黒忠悳が鴎外に宛てた書簡で、「赤間関にちょくちょく遊びに行っているのではなかろうな。」という意味合いのことを述べている。ドイツ留学から帰国した際の一事件も含め、石黒氏からみると、鴎外はそちらのほうでちょいと心配だったのだろうか。<br />
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鴎外はその書簡に対し、「軍務に精進しており、仕事で赤間関に行くことがあっても朝行って、夕方には帰ってきている。先日旭町(小倉の遊郭街)であった送別会には参加すらしませんでした。」という旨を返事している。なにか微笑ましい。ただ、ここまで一生懸命潔癖を語るのは、やはりそれまでいろいろ言われてきたからであろうと推測できる。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-21425792110892157192012-11-25T07:54:00.000+09:002012-11-26T11:36:57.567+09:00玉水俊虎明治33年11月23日「…曹洞の僧玉水俊虎 将に小倉安国寺を再立せんとし…」<br />
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<a href="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgL7P-c5QDMYlghbk54rdTB1zk6svwYtl9cF5SsNRKNgQJS5GskKb9hu-shb7FcZIEys64OArUHuiDrMA6p1bUaY_OkvnSa3_vYAc_ZzciqQN2jhyphenhyphen3JVF7Qg4iyjdRVlLkCMfSZE_B4i3o/s1600/%E4%BF%8A%E8%99%8E.JPG" imageanchor="1" style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" height="320" src="https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEgL7P-c5QDMYlghbk54rdTB1zk6svwYtl9cF5SsNRKNgQJS5GskKb9hu-shb7FcZIEys64OArUHuiDrMA6p1bUaY_OkvnSa3_vYAc_ZzciqQN2jhyphenhyphen3JVF7Qg4iyjdRVlLkCMfSZE_B4i3o/s320/%E4%BF%8A%E8%99%8E.JPG" width="243" /></a><br />
このあと、ずっと付き合いの続く玉水俊虎が訪れたのがこの日である。小倉で廃寺となっていた安国寺の再興を目指していた俊虎が、寄付を依頼する文章を鴎外に書いてくれるようお願いに来たわけである。<br />
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やはり鴎外はかなりの有名人なのでしょうね。ふつう、厚生官僚のお偉方がやってきたからといって、一般人には知れ渡らないけれど、鴎外は特別なのでしょうね。<br />
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これ以降、鴎外は俊虎にドイツ語を教え、俊虎は鴎外に唯識論の講義をするというふうに、お互いに高め合う関係となっている。鴎外の小説「独身」と「二人の友」の中でそれぞれ「安国寺さん」、「寧国寺さん」という名前で描かれている。純朴な人柄として描かれており、実際もそうであったらしい。<br />
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明治33年12月4日 「俊虎予が為に唯識論を講ずること、此日より始まる。」<br />
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また明治34年の1月1日には、福岡日日新聞に「小倉安国寺の記」を、門司新報には「小倉安国寺古家冢町の記」を寄稿しているとのことである。これなども、当然俊虎との交友を得たが故に書いたものであろう。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-8641933532150720550.post-91340115368009646802012-11-24T07:58:00.000+09:002012-11-24T07:58:47.997+09:00澄川徳明治33年10月21日 「…書を馳せて澄川を招く。」<br />
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小倉市立病院長の澄川徳を指している。東大医学部卒である。<br />
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独身という小説の中の富田という医師のモデルとされている。小説の中では、酒好きの赤ら顔表現され、洋行前の資金調達のための院長職と描かれているが、実際はどうだったのだろうか。<br />
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小倉市立病院は、明治32年4月の市制施行に伴い、郡立病院から移行している。hanamagichttp://www.blogger.com/profile/16104388961539724833noreply@blogger.com0