2012年10月13日土曜日

偕行社の変遷

初代

2代

3代

 この写真は、小倉偕行社の変遷を示している。鴎外の小倉日記には、将校への講義や訪問客との食事の際などにこの偕行社を利用したとの記事がよく出てくる。2代偕行社の落成が、明治35年1月とのことなので、鴎外が東京を戻る直前に完成したことになる。クラウゼヴィッツの戦論の講義などは、主として初代偕行社で行ったことになるだろう。

 初代の写真右下には、勝山橋の文字が見えるので、手前の広い道に見える場所は、紫川にかかる橋と思われる。わたしが見つけた明治33年の小倉市の地図では、常盤橋しか描かれていないが、その後勝山橋もかけられたのだろうか。だとしたら、鴎外はこの橋もわたっていた可能性がある。

2012年10月12日金曜日

松本清張

 松本清張の小説に、「或る『小倉日記』伝」というものがあります。これは、小倉日記が見つかる前に、小倉での森鴎外の行動を調べていた田上耕作という実在の人物をモデルにした小説です。ただ、実際の人物とはかなり違った人間として小説では描かれているそうです。

 清張は1909年12月21日に小倉で生まれた、と戸籍上はなっています。しかし実際は、広島で同年の2月12日に生まれ、その後小倉に家族が移り住み、小倉で書類を提出したのではないかとも言われています。

 清張がどのような経緯で田上耕作、さらには森鷗外に興味を持ったのかはわかりませんが、鴎外が亡くなったのが1922年ですから、清張が幼少だったとは言え、二人は同時代を生きていたのですね。

 なお、北九州市小倉北区には、松本清張記念館があります。下記がそこの公式HPです。

         ⇒   http://www.kid.ne.jp/seicho/html/index.html

清書された小倉日記

 私たちが小倉日記として読むものは、鴎外自筆の日記をもとにしたものではないそうだ。実は小倉を去った後に、小倉での日記を清書しなおしてもらっているとのこと。清書しなおすということは、公開を前提としたものということであろうから、その過程で加筆や削除が行われたと考えるのが普通だろう。

 公開するとなると、清書の時点でいろいろな思惑が働くはず。日記を書くときにはそのまま書いたようなことでも、あとになって都合が悪いと考えれば、削除したような不都合な真実もあったはず。

 この清書された小倉日記は、一時期その所在がわからなくなっており、小倉での鴎外の暮らしをしる手がかりがほとんど無い状態だった。しかし、昭和26年になって親戚宅から見つかり、当時の行動を垣間見ることができるようになった。

 ところで、自筆の小倉日記は存在しないのでしょうか。あるならその内容を見てみたいものですね。

2012年10月11日木曜日

軍馬

 小倉赴任時の林太郎は、帝国陸軍の少将相当にはなっていたと思われ、乗馬本文者と言って馬に乗ることを義務付けられていたようである。小倉赴任の際には、東京から2頭の馬を連れてきていた。吉野と松島の2頭である。その後松島は部下に与え替りに北斗という名前の馬を買ったようだ。

 なにせ生き物だから体調の良し悪しもあるであろうから、2頭の馬を飼っておく必要があるのだろう。普段の通勤(司令部への登庁)や北方の視察などにも、馬を使用していたとのこと。

 当時の小倉の街を、馬で進みゆく姿というのは、目立ったことでしょうね。

2012年10月10日水曜日

脚気減少は果して麦を以て米に代へたるに因する乎

 鴎外、森林太郎について概観する際、脚気問題は避けては通れないだろう。

 これまで私は、陸軍と海軍、ドイツ医学とイギリス医学、西洋医学と漢方医学という対比の中で、あるいは、東大医学部ひいては当時の医学会の趨勢という観点から、兵士に提供する主食をあくまで白米で通すという林太郎の態度もやむ無しと考えていた。しかしいくつかの本を読むうちに、日清戦争や台湾赴任の際に多数認められた脚気患者、特に脚気による死亡数から見て、森林太郎は何か手段を講じるべき立場にあったはずだと感じるようになった。

 森林太郎が小倉に赴任した後、小池局長が陸軍大臣に対して上申した内容は、白米主義が脚気発症の多いなる要因であることを述べたものである。その内容は実に簡潔明瞭であり、拘りなく聞けば、兵食を改める方向へ進むのが普通だろうが、上記タイトルの一文を発表している。小倉という、中央から離れた場所にいて少しは客観的に見ることができそうなものだが、離れているがゆえに中央とのつながりを意識したのか、あくまで主食に麦を混ぜることに反対する文である。

 林太郎は明らかに方向転換するチャンスを逃した。そして、数年後第一師団軍医部長として赴いた日露戦争において、戦死者以上の脚気死亡者を出してしまったのである。

 鴎外のこの態度は、現代の薬害にも通ずるものがある官僚の態度とも言える。これは鴎外の人生において、大いなる汚点と思われるが、本人はその点につき語ることはなかったようだ。多数の兵士が戦争そのものではなく、脚気で死亡した事実に対する大いなる責任は林太郎にもあるというのは否定できない事実だろう。同じ日露戦争で、白米とともに麦も兵食として提供した海軍やいくつかの陸軍の部隊において脚気死亡がほとんどなかったことを見ても、実に残念なことである。

2012年10月9日火曜日

役所

 独身という小説の中で、鴎外をモデルとしたとされる主人が、「それは有難う。明日役所から帰る時にでも廻って見ましょう。・・・」と語っている。フィクションの要素も多分にあるのだろうが、鴎外は自身の仕事を役所勤めであると認識していたのだろうと思う。

 森林太郎軍医部長の勤務は朝の9時から午後3時まで。医師として働いているわけでもないので急患もない。また教会の神父からフランス語を習う日には、一旦帰宅後服を着替え、歩いてきちっと遅刻せずにやって来たとのことだから、定刻に帰宅できていたはずである。

 役所勤めでも、木っ端役人はいろいろと仕事が廻ってくるだろう。悠々と帰宅できるところ、やはり地方赴任時の高級官僚という立場になる。

 鴎外が学生当時の東大医学部は、東京医学校の体制である甲乙二部制をとっていたようで、鴎外はその甲(本科生)に進んでいる。本科生は卒業後は主としてドイツへの留学を経験した後に、官途あるいは軍医として採用されることになっていたそうで、母親などの希望も強かったかもしれないが、もともと鴎外は官僚志向であったと考えられる。

2012年10月7日日曜日

広寿山 福聚寺


 鴎外は小倉赴任中に、志げさんと再婚している。
その志げを伴って、小倉の南方にある足立山の麓に存在する
広寿山福寿寺を訪れている。

 この寺は黄檗宗の名刹で、小笠原藩の初代藩主である小笠原忠真(ただざね)が
同家の菩提寺として創建したとされる。

 寺の入口が主要道路からではわからないので気が付きにくいが
かなりの広がりを持つ立派な寺院である。そういえば、近くを走る
バス停の名前に山門町というのがあるが、この寺の山門にあたる
ことから付いているのかもしれない。