ポンペは幕末に西洋医学を日本に伝えたとして歴史に名を残すオランダ人である。ユトレヒト大学卒業後間もなく日本へ派遣された彼は、大学の講義ノートを全て日本に持ってきた。臨床の経験は皆無であっても、解読困難なオランダ語の原書をひっくり返しながらつまみ食い的な西洋医学知識しか有していなかった当時の日本にとっては計り知れない恩恵だったであろう。化学や物理などの基礎から内科、外科に至る系統的講義を、ポンペ一人で行うという超人的ことをやってくれたわけである。
このポンペの日本における一番弟子が松本良順である。実は鴎外の父親である森静泰はその松本良順の弟子に当たるわけで、ポンペからみると孫弟子と言えるわけである。
鴎外はドイツ留学の期間中、語学力をかわれて赤十字の国際会議に随伴している。そのさい、このポンペと出会い、言葉を交わしている。ポンペにとっては、自身の若き情熱を傾けた日本での仕事を思いだすとともに、目の前の鴎外も自身の仕事に繋がっていることに深い感慨を覚えたのではないだろうか。
森鷗外が小倉に軍医部長として赴任した際の小倉日記を紐解くと、北方衛戍病院をしばしば訪れていることがわかります。この病院は、現国立病院機構小倉医療センターです。このブログは鷗外と当院(小倉医療センター)や小倉との関係を中心に、興味ある事項についての忘備録のつもりで綴ります。 内容に誤りがあったり、何か情報があったりいたしましたら、コメントで寄せていただけるとありがたいです。
2012年12月31日月曜日
2012年12月27日木曜日
水質検査
鴎外はドイツ留学中に数箇所で勉強をしている。その一つがベルリン大学である。当時は細菌学の黎明期で、その世界的リーダーであったと思われるコッホの下で学んだわけである。同時期、北里柴三郎もその研究室に身を置いていた。
鴎外に与えられた最初のテーマは、ベルリン下水道の細菌検査だった。その成果については分からないが、そこで身に着けた水質への問題意識はその後も鴎外の中に流れ続けたのだろう。小倉においても水質に関する公演をしたり、紫川の上流まで水質調査を行いに赴いたりしている。
ベルリンで水質に関する研究をするおりには、当然その後小倉に赴任することになろうとは鴎外も思っていないだろう。しかし一人の人生を概観すると、無駄というものはなく、全てはどこかに関わっているものなのだろうと思う。今、此処、の一期一会が大切なる所以であろう。
鴎外に与えられた最初のテーマは、ベルリン下水道の細菌検査だった。その成果については分からないが、そこで身に着けた水質への問題意識はその後も鴎外の中に流れ続けたのだろう。小倉においても水質に関する公演をしたり、紫川の上流まで水質調査を行いに赴いたりしている。
ベルリンで水質に関する研究をするおりには、当然その後小倉に赴任することになろうとは鴎外も思っていないだろう。しかし一人の人生を概観すると、無駄というものはなく、全てはどこかに関わっているものなのだろうと思う。今、此処、の一期一会が大切なる所以であろう。
2012年12月25日火曜日
森白仙
鴎外の祖父、森白仙は津和野藩の典医であった。参勤交代に従い江戸まで来ていたが、体調を崩したようだ。典医の役目は、殿に付き従い、体調を守ることである。付き従えなければその役目を果たしたことにはならない。
役目を果たせなければ、家禄が削られるという不名誉を受けることになる。そこで体調不良のまま、無理に帰途についた。しかし土山宿(東海道53次の49番目の宿)で病状が悪化し、亡くなっている。その後実際に森家の家禄が減らされたようである。
この祖父の病気は脚気であったといわれ、脚気衝心で亡くなったたのであろう。日清戦争や日露戦争で、多くの兵士を脚気で死に到らしめてしまった帝国陸軍軍医部のお偉方に名を連ねた森鴎外の生涯を考えると、皮肉なことである。
この白仙の墓を、鴎外は小倉赴任中の明治33年3月に一度だけ訪れている。東京出張への途次である。松本清張は、「両像・森鴎外」の中で、祖父が病気により役職を果たせなかった無念を、鴎外自身が感じている左遷への失意に重ね、訪ねてみる気になったのではないかと書いている。
役目を果たせなければ、家禄が削られるという不名誉を受けることになる。そこで体調不良のまま、無理に帰途についた。しかし土山宿(東海道53次の49番目の宿)で病状が悪化し、亡くなっている。その後実際に森家の家禄が減らされたようである。
この祖父の病気は脚気であったといわれ、脚気衝心で亡くなったたのであろう。日清戦争や日露戦争で、多くの兵士を脚気で死に到らしめてしまった帝国陸軍軍医部のお偉方に名を連ねた森鴎外の生涯を考えると、皮肉なことである。
この白仙の墓を、鴎外は小倉赴任中の明治33年3月に一度だけ訪れている。東京出張への途次である。松本清張は、「両像・森鴎外」の中で、祖父が病気により役職を果たせなかった無念を、鴎外自身が感じている左遷への失意に重ね、訪ねてみる気になったのではないかと書いている。
2012年12月20日木曜日
軍都
小倉に第十二師団を設置するにあたり、小倉の南にある北方の地において、40万坪以上の土地が買い上げられたという。その土地には、様々な施設が作られるわけであり、建設業、土木業、工業、鉱業、商業など様々な産業が大いに刺激された。
寒村であった小倉が、軍都へと変貌を遂げていくわけである。鴎外が赴任する数年前から、大いに活況を呈し始めたばかりの町は、新旧入り混じった状況であったろうと思われる。また、周囲からいろいろな人間が流れ込んできたであろうから、治安が良いとはいえない状況も多かっただろうと想像してしまう。
その後、第二次世界大戦が終わるまで、北九州地域は軍都としての色彩が濃かったのではないかと思う。
寒村であった小倉が、軍都へと変貌を遂げていくわけである。鴎外が赴任する数年前から、大いに活況を呈し始めたばかりの町は、新旧入り混じった状況であったろうと思われる。また、周囲からいろいろな人間が流れ込んできたであろうから、治安が良いとはいえない状況も多かっただろうと想像してしまう。
その後、第二次世界大戦が終わるまで、北九州地域は軍都としての色彩が濃かったのではないかと思う。
2012年12月18日火曜日
2012年12月15日土曜日
森篤次郎
明治32年10月18日 …篤次郎の東京印刷株式会社工場顧問となりし…
(小倉日記)
~~~~~~~~~~~
鴎外の弟(次男)が森篤次郎である。鴎外と同様、帝国大学医科大学を出て、医師となっている。また、幼少時より馴染んだ芝居見物が一生の趣味となり、歌舞伎の劇評家として有名であったという。学生時代も芝居見物故に大学への出席日数が少なかったらしい。
劇評家としては、三木竹二という名で文を書いていたようで、彼の仕事は歌舞伎の世界では大きなことだったとされているようだ。写真はWeb上で見つけてきたものだが、鴎外と似ているような似ていないような、といったところか。40歳で亡くなっている。
2012年12月13日木曜日
船旅
| 森林太郎がドイツ留学へ向かう際の航路 |
ドイツに向かうとなれば、当然船。途中寄港地はあるにしろ、2ヶ月近くの船旅というのも大変そうである。
帰る時にも当然同様の時間がかかるわけだ。もちろんお金だってかかる。
そんな船旅をしてまで、エリーゼ・ヴィーゲルトは日本までやってきた。ある程度の約束が、林太郎とのあいだでなされていなければ、来ないだろうと思う。エリーゼ・ヴィーゲルトがどこの誰かはまだ特定されていないようであるが、舞姫で描かれた踊り子のような身の上ではなかったとされているようだ。
また、エリーゼの旅費を一体誰が出したのかも、霧の中らしい。林太郎が捻出したのではないかと推測するものもいるようだ。
登録:
投稿 (Atom)
