2013年1月11日金曜日

黒木為禎(ためもと)

 黒木為禎が西部都督(小倉)にいるころ、鴎外も赴任したことになる。薩摩藩士の子供で、日清戦争の時には第六師団長として出兵している。日露戦争においては第一軍司令官となる人物であり、ロシアとの戦争が避けられないとの見方が出てきていた1900年頃に黒木近衛師団長が小倉にいたということは、やはり戦争という面から小倉がかなり重要な位置を占めていたことが窺われる。

 小倉日記にはあまり出てこないので、鴎外との交流はそれほどなかったのかもしれない。日露戦争では、その勇猛果敢な戦術から、ロシア軍からはクロキンスキーとあだ名され、黒木率いる軍隊はくろき軍として恐れられていたという。

 またロシア軍を破った軍人として、アメリカでは乃木などより有名だったようだ。

2013年1月10日木曜日

つながり

 鴎外は多分野で足跡を残した人物であり、その人生を語る書物も多く存在する。それらを読んでみると次から次と有名人が出てくるし、その流れは幕末にさらには江戸時代へも繋がっていく。一人の人生が、多くの出会いと別れ、繋がりの中で織り成されていくものである、ということに改めて思い至る。

 わが身を振り返ってみると、有名無名の差は大きいとはいえ、やはり数え切れぬほどのつながりの中、今という時代を漂い、生き、生かされていることを感じる。

 研究者と呼ばれる人の中には、誰それの研究が専門、という具合に、ある人物の足跡を研究する人がいる。これまで、そういう研究に何の興味もなかったが、一人の人物を研究することはその一人にとどまらないことが少しわかってきた。一人の人物をとおして、その人の生き様を思い、生きた時代を感じ、多くの人物についても研究し、結局人生そのものについての思索を深めていくということになるのだろう。

 このようなブログを立ち上げたのも何かの縁。もう少し鴎外について、学んでみたいと思う。

2012年12月31日月曜日

ポンペ・ファン・メールデルフォールト

 ポンペは幕末に西洋医学を日本に伝えたとして歴史に名を残すオランダ人である。ユトレヒト大学卒業後間もなく日本へ派遣された彼は、大学の講義ノートを全て日本に持ってきた。臨床の経験は皆無であっても、解読困難なオランダ語の原書をひっくり返しながらつまみ食い的な西洋医学知識しか有していなかった当時の日本にとっては計り知れない恩恵だったであろう。化学や物理などの基礎から内科、外科に至る系統的講義を、ポンペ一人で行うという超人的ことをやってくれたわけである。

 このポンペの日本における一番弟子が松本良順である。実は鴎外の父親である森静泰はその松本良順の弟子に当たるわけで、ポンペからみると孫弟子と言えるわけである。

 鴎外はドイツ留学の期間中、語学力をかわれて赤十字の国際会議に随伴している。そのさい、このポンペと出会い、言葉を交わしている。ポンペにとっては、自身の若き情熱を傾けた日本での仕事を思いだすとともに、目の前の鴎外も自身の仕事に繋がっていることに深い感慨を覚えたのではないだろうか。

2012年12月27日木曜日

水質検査

 鴎外はドイツ留学中に数箇所で勉強をしている。その一つがベルリン大学である。当時は細菌学の黎明期で、その世界的リーダーであったと思われるコッホの下で学んだわけである。同時期、北里柴三郎もその研究室に身を置いていた。

 鴎外に与えられた最初のテーマは、ベルリン下水道の細菌検査だった。その成果については分からないが、そこで身に着けた水質への問題意識はその後も鴎外の中に流れ続けたのだろう。小倉においても水質に関する公演をしたり、紫川の上流まで水質調査を行いに赴いたりしている。

 ベルリンで水質に関する研究をするおりには、当然その後小倉に赴任することになろうとは鴎外も思っていないだろう。しかし一人の人生を概観すると、無駄というものはなく、全てはどこかに関わっているものなのだろうと思う。今、此処、の一期一会が大切なる所以であろう。

2012年12月25日火曜日

森白仙

 鴎外の祖父、森白仙は津和野藩の典医であった。参勤交代に従い江戸まで来ていたが、体調を崩したようだ。典医の役目は、殿に付き従い、体調を守ることである。付き従えなければその役目を果たしたことにはならない。
 
 役目を果たせなければ、家禄が削られるという不名誉を受けることになる。そこで体調不良のまま、無理に帰途についた。しかし土山宿(東海道53次の49番目の宿)で病状が悪化し、亡くなっている。その後実際に森家の家禄が減らされたようである。

 この祖父の病気は脚気であったといわれ、脚気衝心で亡くなったたのであろう。日清戦争や日露戦争で、多くの兵士を脚気で死に到らしめてしまった帝国陸軍軍医部のお偉方に名を連ねた森鴎外の生涯を考えると、皮肉なことである。

 この白仙の墓を、鴎外は小倉赴任中の明治33年3月に一度だけ訪れている。東京出張への途次である。松本清張は、「両像・森鴎外」の中で、祖父が病気により役職を果たせなかった無念を、鴎外自身が感じている左遷への失意に重ね、訪ねてみる気になったのではないかと書いている。

2012年12月20日木曜日

軍都

 小倉に第十二師団を設置するにあたり、小倉の南にある北方の地において、40万坪以上の土地が買い上げられたという。その土地には、様々な施設が作られるわけであり、建設業、土木業、工業、鉱業、商業など様々な産業が大いに刺激された。

 寒村であった小倉が、軍都へと変貌を遂げていくわけである。鴎外が赴任する数年前から、大いに活況を呈し始めたばかりの町は、新旧入り混じった状況であったろうと思われる。また、周囲からいろいろな人間が流れ込んできたであろうから、治安が良いとはいえない状況も多かっただろうと想像してしまう。

 その後、第二次世界大戦が終わるまで、北九州地域は軍都としての色彩が濃かったのではないかと思う。

2012年12月18日火曜日

ベルツ水

 鴎外の大学の恩師の一人であるベルツは、ベルツ水という化粧水を創った人物としても有名である。箱根の富士屋ホテルに妻の花と宿泊中、女中の手が荒れているのを見た。花によると、手荒れの薬はヘチマ水くらいしか日本にはないと聞き、肌荒れ用化粧水として、グリセリン、アルコール、水酸化カリウム、芳香性の精油、蒸留水などを混合して作ったとのことである。

 妻の花は、荒井はつ(ハナ、花、花子)。ベルツが29年の日本滞在を終えてドイツへ帰国する際には、共にドイツへ渡ったとのこと。