2012年9月24日月曜日

第十二師団の配置図

 陸上自衛隊資料館で拝見した図譜です。近代の地図をベースに明治32年頃の軍配置図を記入したものと思われ、きちっとした地図ではないので、どこまで正確化は検証できません。ベースとして参考にしている地図は、昭和40年前後のものと思われるのですが、国道10号線のすぐ南を走る日豊本線が描かれていないのが気になります。また、今は無き小倉鉄道の駅として足立駅と書いてあるのは妙見駅の誤記である可能性があります。

 ということで、正確さという点では疑問が残りますが、随分広い範囲に広がり、帝国陸軍施設が存在していたことはよくがわかります。

 当時の北方は野原か田んぼが広がる地域だったでしょうから、広大な敷地が必要な師団を配置するにはこの地が必要だったのでしょうね。

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明治32年7月14日・・・始めて北方に至る。歩兵第四七連隊及工兵営を看る。(現在の陸上自衛隊の敷地から北九州大学あたりにかけての視察ということになる。)

同15日・・・野戦砲兵及騎兵営を看る。(図譜南端あたりの視察。)

8月2日 輜重兵第十二大隊営及小倉衛戍病院を看る。(小倉日記中に北方の衛戍病院のことが出てくるのは、この日が最初である。上掲載図譜が無ければ、「北方を訪れれば、病院にもすぐ寄れただろう」などと勝手な想像をしてしまいそうだが、これだけの広がりがあればそうもいかない。鴎外が初めて北方にある小倉衛戍病院を訪れたのは、この明治32年8月2日である可能性が高いと思う。)

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