2012年12月31日月曜日

ポンペ・ファン・メールデルフォールト

 ポンペは幕末に西洋医学を日本に伝えたとして歴史に名を残すオランダ人である。ユトレヒト大学卒業後間もなく日本へ派遣された彼は、大学の講義ノートを全て日本に持ってきた。臨床の経験は皆無であっても、解読困難なオランダ語の原書をひっくり返しながらつまみ食い的な西洋医学知識しか有していなかった当時の日本にとっては計り知れない恩恵だったであろう。化学や物理などの基礎から内科、外科に至る系統的講義を、ポンペ一人で行うという超人的ことをやってくれたわけである。

 このポンペの日本における一番弟子が松本良順である。実は鴎外の父親である森静泰はその松本良順の弟子に当たるわけで、ポンペからみると孫弟子と言えるわけである。

 鴎外はドイツ留学の期間中、語学力をかわれて赤十字の国際会議に随伴している。そのさい、このポンペと出会い、言葉を交わしている。ポンペにとっては、自身の若き情熱を傾けた日本での仕事を思いだすとともに、目の前の鴎外も自身の仕事に繋がっていることに深い感慨を覚えたのではないだろうか。

2012年12月27日木曜日

水質検査

 鴎外はドイツ留学中に数箇所で勉強をしている。その一つがベルリン大学である。当時は細菌学の黎明期で、その世界的リーダーであったと思われるコッホの下で学んだわけである。同時期、北里柴三郎もその研究室に身を置いていた。

 鴎外に与えられた最初のテーマは、ベルリン下水道の細菌検査だった。その成果については分からないが、そこで身に着けた水質への問題意識はその後も鴎外の中に流れ続けたのだろう。小倉においても水質に関する公演をしたり、紫川の上流まで水質調査を行いに赴いたりしている。

 ベルリンで水質に関する研究をするおりには、当然その後小倉に赴任することになろうとは鴎外も思っていないだろう。しかし一人の人生を概観すると、無駄というものはなく、全てはどこかに関わっているものなのだろうと思う。今、此処、の一期一会が大切なる所以であろう。

2012年12月25日火曜日

森白仙

 鴎外の祖父、森白仙は津和野藩の典医であった。参勤交代に従い江戸まで来ていたが、体調を崩したようだ。典医の役目は、殿に付き従い、体調を守ることである。付き従えなければその役目を果たしたことにはならない。
 
 役目を果たせなければ、家禄が削られるという不名誉を受けることになる。そこで体調不良のまま、無理に帰途についた。しかし土山宿(東海道53次の49番目の宿)で病状が悪化し、亡くなっている。その後実際に森家の家禄が減らされたようである。

 この祖父の病気は脚気であったといわれ、脚気衝心で亡くなったたのであろう。日清戦争や日露戦争で、多くの兵士を脚気で死に到らしめてしまった帝国陸軍軍医部のお偉方に名を連ねた森鴎外の生涯を考えると、皮肉なことである。

 この白仙の墓を、鴎外は小倉赴任中の明治33年3月に一度だけ訪れている。東京出張への途次である。松本清張は、「両像・森鴎外」の中で、祖父が病気により役職を果たせなかった無念を、鴎外自身が感じている左遷への失意に重ね、訪ねてみる気になったのではないかと書いている。

2012年12月20日木曜日

軍都

 小倉に第十二師団を設置するにあたり、小倉の南にある北方の地において、40万坪以上の土地が買い上げられたという。その土地には、様々な施設が作られるわけであり、建設業、土木業、工業、鉱業、商業など様々な産業が大いに刺激された。

 寒村であった小倉が、軍都へと変貌を遂げていくわけである。鴎外が赴任する数年前から、大いに活況を呈し始めたばかりの町は、新旧入り混じった状況であったろうと思われる。また、周囲からいろいろな人間が流れ込んできたであろうから、治安が良いとはいえない状況も多かっただろうと想像してしまう。

 その後、第二次世界大戦が終わるまで、北九州地域は軍都としての色彩が濃かったのではないかと思う。

2012年12月18日火曜日

ベルツ水

 鴎外の大学の恩師の一人であるベルツは、ベルツ水という化粧水を創った人物としても有名である。箱根の富士屋ホテルに妻の花と宿泊中、女中の手が荒れているのを見た。花によると、手荒れの薬はヘチマ水くらいしか日本にはないと聞き、肌荒れ用化粧水として、グリセリン、アルコール、水酸化カリウム、芳香性の精油、蒸留水などを混合して作ったとのことである。

 妻の花は、荒井はつ(ハナ、花、花子)。ベルツが29年の日本滞在を終えてドイツへ帰国する際には、共にドイツへ渡ったとのこと。


2012年12月15日土曜日

森篤次郎



明治321018日  …篤次郎の東京印刷株式会社工場顧問となりし…
            (小倉日記)

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 鴎外の弟(次男)が森篤次郎である。鴎外と同様、帝国大学医科大学を出て、医師となっている。また、幼少時より馴染んだ芝居見物が一生の趣味となり、歌舞伎の劇評家として有名であったという。学生時代も芝居見物故に大学への出席日数が少なかったらしい。

 劇評家としては、三木竹二という名で文を書いていたようで、彼の仕事は歌舞伎の世界では大きなことだったとされているようだ。写真はWeb上で見つけてきたものだが、鴎外と似ているような似ていないような、といったところか。40歳で亡くなっている。

2012年12月13日木曜日

船旅

森林太郎がドイツ留学へ向かう際の航路
鴎外は医学部卒業後のドイツ留学を強く希望していたとされる。明治になりドイツ医学を第一とする政府の方針故なのだろうか。

 ドイツに向かうとなれば、当然船。途中寄港地はあるにしろ、2ヶ月近くの船旅というのも大変そうである。

 帰る時にも当然同様の時間がかかるわけだ。もちろんお金だってかかる。

 そんな船旅をしてまで、エリーゼ・ヴィーゲルトは日本までやってきた。ある程度の約束が、林太郎とのあいだでなされていなければ、来ないだろうと思う。エリーゼ・ヴィーゲルトがどこの誰かはまだ特定されていないようであるが、舞姫で描かれた踊り子のような身の上ではなかったとされているようだ。

 また、エリーゼの旅費を一体誰が出したのかも、霧の中らしい。林太郎が捻出したのではないかと推測するものもいるようだ。

2012年12月11日火曜日

ノート

医学部時代の鴎外のノート
現代の医学部の講義の中では、整形外科の教科書に包帯法のことは出てくると思うが、その実習などは行われない場合が多いのではないかと思う。

 包帯は、創の被覆保護、圧迫、固定、患部の安静保持その他に使用される。現在でも看護科の授業では実習があるのかもしれない。

 鴎外の時代、特に軍医にとっては、包帯法は必須の授業であったであろう。外傷治療の進歩は、歴史的に見ても戦争中に進歩したと言われており、外傷の治療と包帯法は大いに関係があるからである。

 鴎外のこのノートの記載は、まさに包帯法についてであろうと思われる。ドイツ語を綺麗な字で書いていることとともに、丁寧な絵が印象的である。その頃の学生は、みなこれほど丁寧にノートをとっていたのであろうか。それとも中には、良さそうなノートを借りて写す輩もいたのであろうか。

肝膿瘍

明治32年8月5日 歩兵大尉水町恒一郎の葬を送る。肝膿瘍に死し…

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 細菌感染に対して抗生物質を使うのは、現代では当たり前となっている。しかし、初めて抗生物質が発見されたのは1929年のことであり、明治32年には存在しなかった。怪我などで細菌が体内に入れば、それで命取りになることは決して稀なことではなかった。

 肝膿瘍となれば、抗生物質のある現代でも治りにくい場合が少なくない。上記の大尉は剖検(解剖)を行われたこともあり、その葬儀に鴎外も参列したのであろうか。その剖検自体に鴎外が関わったかどうかはわからない。

 鴎外のことを調べていると、なんだか鴎外もつい最近の人物のような気がしてくるのだが、抗生物質のない時代と考えると、やはり随分昔の話なんだと思う。

 ちなみに、初めて発見された抗生物質はペニシリンで、フレミングによって青かびから単離されています。鴎外が亡くなってから約7年後のことです。

2012年12月10日月曜日

福島安正

明治32年7月28日 福島安正の演説するところ列国均勢の…

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 福島安正が小倉に来て演説をしたのか、どこかでした演説の報告があったのかははっきりしないが、その内容は鴎外にとっても、「耳を傾くるに足るものあり」と感じる内容であったようだ。恐らく福島自身が見聞した内容を交え、今の西欧情勢を語ったものだったのであろう。

 福島安正は陸軍軍人で、単独で馬に乗って冬のシベリアを横断したことで知られている。ロシアが極東への物資輸送を考えシベリア鉄道の着工を行うとの情報を実際に見て確かめるという意図のある単騎行であり、諜報活動が目的であった。490日に及ぶ行程で得た様々な情報は、当時の軍部にとって非常に貴重な内容だったとされる。

 当時、極寒のシベリアを単独で横断したものなどはおらず、ロシアの各地では歓待されたりもしたようである。ベルリン、モスクワ、シベリア、ウラジオストックと約1万4千Kmを490日という時間をかけ、20頭以上の馬を乗り潰し敢行したという、とんでもない人物。今なら冒険家として紹介されても良い人物である。

 その単騎行からまだ6年程度しか経過していない時期の彼の話は、まだまだ新鮮だったであろう。ちなみにこの翌年の1900年(明治33年)4月には、陸軍少将として西部都督部(小倉)に赴任している。

2012年12月9日日曜日

地図

「明治32年6月29日 夜吉田茂太郎至る。小倉地圖稿を示す。同年7月1日 吉田の地圖成る。」

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 吉田は福岡出身の軍医で、日清戦争の時は鴎外の部下だったとのこと。29日に作成中の小倉の地図を鴎外に見てもらいに来たのだろう。地図を作ることを鴎外から指示されて作ったのかもしれない。新任の軍医部長として、その地の地勢を知ることをまず第一としたのだろうか。その2日後の7月1日に完成している。

 鴎外は東京に戻ってから東京方眼圖という地図を作成している。地図を方眼に区切って表す手法は、当時の日本にあっては珍しいものだったらしいが、東京方眼圖の完成品は販売にまでいたったとのこと。地理を知るということに、鴎外は重きを置いていたのでしょう。

 鴎外は完成した小倉地圖を片手に、小倉にある軍施設などを視察して回ったのでしょう。その地図は今東大に保管されていると聞くが、一度見てみたいものである。

2012年12月8日土曜日

麥酒

 日本におけるビールの歴史はよくわかりませんが、もともと入ってきたのはイギリスのビールであったろうと思います。しかし明治になりドイツビールが入り、プロシアがフランスに戦争で勝ったこともあり、ドイツかぶれといってもいいような世相も反映し、ドイツビールが主になったのでは思われます。プロシア軍の伝統的儀式とされるビールの一気飲みも、当時のドイツへ留学した帝国陸軍将校などによりもたらされたことでしょう。

 森鴎外もそのころのドイツに留学しています。自分はビールをせいぜい2ℓ程度しか飲めないのに対し、ドイツ人が12ℓ程度を飲んでしまうのに驚いたようです。そして鴎外の書いたものには、ちょくちょくビールが出てきます。

 小倉日記の中にも「麥酒を酌みて時事を談ず」などという記載があります。そのビールは日本で作られたものなのか輸入ものなのかは判りかねますが、きっと安いものではなかったでしょう。

 またうたかたの記では、陶器製の蓋付ビールジョッキの事なども書いています。さて時事を談じたときはどのような器でビールを飲んだのでしょうか。東京の森鴎外記念館には、鴎外のものとして蓋付ビールジョッキを展示していましたが、小倉にまで持ってきていたのでしょうか。

2012年12月5日水曜日

翁草


 国語の教科書で読んだ鴎外の小説の中に、高瀬舟がある。この小説の題材は翁草という随筆集から得ているという。これは、京都町奉行所の与力を務めた神沢貞幹(1710年~1795年)が記述したもので、明治38年(1905)に全200巻が刊行されたようである。鴎外はかなり興味を持ってこの随筆集を読み込んだようで、鴎外の書き込みのある本が残されているとのことである。

 都の大火を記録したものとしては、鴨長明の方丈記が有名であるが、神沢貞幹(杜口:とこう)はそれ以上の筆致で、天明の大火(洛陽大火、1788)の仔細を翁草の中に書き残している。その時の杜口は79歳。火事の火元からその時々刻々の広がる具合まで、恐らく自分の足で取材をして記載したものと思われる。

 この翁草のなかに、同心が船中で流人と語った内容が記されており、そこから鴎外は高瀬舟を紡ぎ出したわけである。江戸時代に安楽死という概念があるとは思えず、杜口自身がそれを念頭においていたとは考えられないが、そこに鴎外はユウタナジイ(安楽死)の問題を感じ取り小説としたのであろう。そこのところは鴎外自身が高瀬舟縁起の中で語っている。

2012年12月2日日曜日

田山花袋

「渠は歩き出した。 銃が重い、背嚢が重い、が重い、アルミニウム製の金椀が腰の剣に当たってカタカタと鳴る。その音が興奮した神経をおびただしく刺戟する…息が非常に切れる。全身には悪熱悪寒が絶えず往来する。頭脳が火のように熱して、※(「需+頁」、第3水準1-94-6)がはげしい脈を打つ…腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ。…頭脳がぐらぐらして天地が廻転するようだ。胸が苦しい。頭が痛い。脚ののところが押しつけられるようで、不愉快で不愉快でしかたがない。ややともすると胸がむかつきそうになる。…黎明に兵站部の軍医が来た。けれどその一時間前に、渠は既に死んでいた。」

 上は、田山花袋の小説「一兵卒」から抜き出したものである。全文を青空文庫で読むことができる(http://www.aozora.gr.jp/cards/000214/card1066.html)。一人の日本兵士が、戦闘ではなく病気で死にゆくさまが描かれており、その絶望に、短い小説にもかかわらず、読んでいる途中でときに読むのをやめてしまいたくなる。

 この兵士の症状は脚気と思われる。脚気から脚気衝心となり死に至ったものであろう。

 田山花袋の名は、文学史では「布団」の作者として出ている場合がほとんどであるが、彼は従軍記者として日露戦争の戦地に赴いている。赴く前の広島で始めて鴎外と知り合うことができ、戦地でもしばしば鴎外と語らう時間を持ったと言われている。日清戦争や北清事変と同様、その日露戦争においても陸軍兵士の多くが脚気衝心で命を落した。その様子をつぶさに見ていた田山花袋であるからこそ、一兵卒という小説をかけたのであろう。

2012年11月28日水曜日

即興詩人

 鴎外が日本語訳した「即興詩人」の初版の前書きに「此譯は明治二十五年九月十日稿を起し、三十四年一月十五日完成す。」と記されている。8年4ヶ月の歳月をかけている。一般のイメージでは鴎外は文豪だが、伝記の類を読んでみると、鴎外はやはり官僚(軍医)であることがプライオリティの第一であったと思われる。その官僚としての様々な仕事の合間に訳出したとなると、その忍耐強さに驚く。翻訳開始後には日清戦争も起こったわけであり、鴎外にも多くの為すべき職務が山のようにあったはずである。

 訳出し終わったのは、小倉で2番目に居した京町の自宅に引っ越して間もなくである。小倉に赴任してからほぼ一年半が経過している。小倉赴任前までに、即興詩人のどの部分まで訳出し終わっていたのかはわからないが、東京にいたときよりは時間が取れたであろう小倉赴任がなければ、ひょっとしたら即興詩人の翻訳終了までにはまだ月日がかかったかもしれないし、翻訳が終了しなかった可能性もあったかもしれない。

 鴎外訳による即興詩人が公になった後、その本を片手にヨーロッパを旅した日本人が数多くあったことを聞くとき、鴎外の小倉着任が与えた一つの大いなる影響を見ることができる。

下痢

 門司新報という新聞の明治32年7月14日の記事では、軍医部長の巡視日程として、7月17日に小倉衛戍病院と輜重兵十二大隊をまわる予定と記載されている。ところが小倉日記によると、7月13日ころから下痢が始まり、次第に症状が増悪し、15日の予定の途中からは帰宅して20日まで休んでいる。そのため、当初の予定は実行されなかった。

 当初7月17日の予定だったものは、8月2日に実行され、小倉衛戍病院の視察を行ったことになる。
 
 下痢の原因については記載はないが、転勤に伴う疲れ、食べ物に当たった、ウィルス性の腸炎などが考えられるだろうか。鴎外は、衛生上の観点からも加熱されていないものは基本的に食べなかったと伝えられているようですが、それでも下痢症になるときはなりますね。独り身で家でうんうん唸っているというのは心細いものだろうが、その間の日記の記載はない。

2012年11月27日火曜日

都督部

 都督部というのは、作戦計画、訓練、教育を担当した陸軍の組織で、明治29年に設立された。東部、中部、西部の三つの都督部が存在し、東部は東京、中部は大阪、そして西部都督部が置かれたのが小倉である。天皇に直隷した組織とされ、都督部所在地にある師団は他の師団に比べて上に見られていたようである。

 第十二師団は、そのような位置づけとなり、北清事変が起こり、露西亜との戦いが確実視されていた時代にあっては、軍組織上はかなり重要な師団であったと思われる。ならばその師団の軍医部長としての赴任というのもかなり重要な意味合いがあったと推察される。

 鴎外の小倉赴任が左遷とする場合、日本の西の果てであるとか、第十二師団であるとかから判断している場合が多いようである。しかし実際、この赴任は軍組織としての異動であり、左遷か否かは軍組織としてどうであったかではかられるべきであろう。そのような視点から見るとどうかは、軍組織についての知識がない私には判断できない。ただ、松本清張は、当時の第一(東京)、第四(大阪)、第十二(小倉)師団の軍医部長を見てみると、序列通りの配置であろうと述べている。

2012年11月26日月曜日

赤間関

 現在の下関港あたりが赤間関と呼ばれていたようだ。1889年に日本で最初に市制が施行された市の一つとして、赤間関市が誕生したとのことだ。そして1902年に現在の名前である下関市となっている。山口県の瀬戸内にある上関、中の関、に対しての下関と思われる。

 赤間関は赤馬関とも表記されていた関係で、馬関(ばかん)とも呼ばれていた。鴎外がいた頃には、この赤間関には遊郭があったようだ。鴎外の上司であり軍医総監でもあった石黒忠悳が鴎外に宛てた書簡で、「赤間関にちょくちょく遊びに行っているのではなかろうな。」という意味合いのことを述べている。ドイツ留学から帰国した際の一事件も含め、石黒氏からみると、鴎外はそちらのほうでちょいと心配だったのだろうか。

 鴎外はその書簡に対し、「軍務に精進しており、仕事で赤間関に行くことがあっても朝行って、夕方には帰ってきている。先日旭町(小倉の遊郭街)であった送別会には参加すらしませんでした。」という旨を返事している。なにか微笑ましい。ただ、ここまで一生懸命潔癖を語るのは、やはりそれまでいろいろ言われてきたからであろうと推測できる。

2012年11月25日日曜日

玉水俊虎

明治33年11月23日「…曹洞の僧玉水俊虎 将に小倉安国寺を再立せんとし…」

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 このあと、ずっと付き合いの続く玉水俊虎が訪れたのがこの日である。小倉で廃寺となっていた安国寺の再興を目指していた俊虎が、寄付を依頼する文章を鴎外に書いてくれるようお願いに来たわけである。

 やはり鴎外はかなりの有名人なのでしょうね。ふつう、厚生官僚のお偉方がやってきたからといって、一般人には知れ渡らないけれど、鴎外は特別なのでしょうね。

 これ以降、鴎外は俊虎にドイツ語を教え、俊虎は鴎外に唯識論の講義をするというふうに、お互いに高め合う関係となっている。鴎外の小説「独身」と「二人の友」の中でそれぞれ「安国寺さん」、「寧国寺さん」という名前で描かれている。純朴な人柄として描かれており、実際もそうであったらしい。

明治33年12月4日 「俊虎予が為に唯識論を講ずること、此日より始まる。」

 また明治34年の1月1日には、福岡日日新聞に「小倉安国寺の記」を、門司新報には「小倉安国寺古家冢町の記」を寄稿しているとのことである。これなども、当然俊虎との交友を得たが故に書いたものであろう。

2012年11月24日土曜日

澄川徳

明治33年10月21日 「…書を馳せて澄川を招く。」
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 小倉市立病院長の澄川徳を指している。東大医学部卒である。

 独身という小説の中の富田という医師のモデルとされている。小説の中では、酒好きの赤ら顔表現され、洋行前の資金調達のための院長職と描かれているが、実際はどうだったのだろうか。

 小倉市立病院は、明治32年4月の市制施行に伴い、郡立病院から移行している。

2012年11月23日金曜日

小倉常磐座

明治33年7月29日 「常磐座に演説す。… 聴衆千を踰ゆ」
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 明治31年、小倉の船頭町という所に開業した劇場とのこと。当時千人を超える聴衆が入る劇場があるというのも驚きだが、それだけの人を集める鴎外というのもすごいですね。

 しかも内容はフリードリッヒ・パウルゼンの倫理学説について語るという類のものだから難易度が高そう。鴎外が高度な内容をどれくらいわかりやすく語ることができたのかはわかりませんが、肉声を聞いてみたいものですね。

 ちなみにこの常磐座は、小倉を舞台とした映画無法松の一生のなかでも、大騒動の場面で出てくるそうです。

※パウルゼン…ドイツ人。ベルリン大学教授。哲学者、教育学者。倫理学体系(1889)。

2012年11月22日木曜日

豊洲鉄道

明治33年6月1日 「午前九時小倉を発して大分に向ふ。…始て豊洲線路に由る。(小倉日記)」

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 徴兵検査に赴くための大分への出張だったようだ。

 北部九州は産地から石炭を運び出すためということもあり、いくつもの鉄道が存在していた。小倉日記の中に鉄道名の記載がいくつかある。少し調べようとしても、会社同士の合併や廃線などがあり、その歴史をたどるだけでも大層なことである。

 この豊洲(ほうしゅう)鉄道も、鴎外が利用した翌年には九州鉄道に吸収合併された(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B7%9E%E9%89%84%E9%81%93)とのことである。

 それにしても、第12師団軍医部長というのは、広域に渡る職務があったわけで、一般の感覚からすれば雲の上存在。それを左遷と感じる人の心というのは、つくづく難しいものだ。誰しも、何かと比較して、喜んだり、がっかりしたりするもの。そこをスッと吹っ切れれば、どうということもないのであろうが。

 鴎外が、軍の職務に精励したのも、わだかまりを吹っ切り、己が心を平静に保つためだったのかもしれないとふと感ずる。

2012年11月21日水曜日

志げ

 鴎外は、明治35年1月4日に志げとの婚礼をあげている。大審院判事である荒木博臣の長女である。この妻の名は、志げ、志げ子、シゲ、茂子などといろいろな記載を見かける。ただ、小倉日記では
 1月4日 茂子を娶る。

と書いてあるので、茂子が正式な名前なのだろうか。それにしても、記載がこの一行です。

 鴎外40歳、志げ22(23?)歳の新郎新婦である。1月8日に小倉に戻り、3月26日に小倉を発つまでの間、京町の自宅で新婚生活を送ったことになる。自宅から、小倉城内にあった司令部まで、この新妻はお弁当を届けていたとの話もあるようで、初々しくほほえましいことである。

 この短い期間に、鴎外は志げを伴ない近隣の旧跡などを歩いているので、鴎外自身も二人の生活を嬉しく思い、大切にしていたのであろう。

2012年11月20日火曜日

上りの汽車はなほ妬かりき

 鴎外が日露戦争に従軍した際に詠んだとされる詩歌が、うた日記として発刊されたのは1907年である。その詩歌の中に
 「夕風に袂すずしき常盤橋上りの汽車はなほ妬かりき」 
の一首があるという。

 常盤橋は、小倉にいる鴎外が、登庁の際や散歩の際など頻繁に渡った橋を指しているのだろう。現在もそうだが、当時の地図を見ても、常盤橋の少し海側を鉄道が走っている。夕風と書いているところから、日課としていた食後の散歩のときの風景や想いを思い出して歌にしたのだろう。

 常盤橋から見える上り列車に乗れば、東京へ戻れる。その上り列車をみて、妬ましさを感じていたなぁ。その後第一師団軍医部長となり東京に戻れることになったが、やはりあの時はつらかったなぁ。東京へ戻る知人を見送るのもなんとなく心に引っかかるものがあったが、列車を見てもうらやましく感じていたなぁ、といったところだろうか。

 小倉日記には、左遷と自身が思っていることを示す部分はほとんどないと思うが、後になり振り返って詩歌として感情を吐露する際には、素直な想いを表現できたのでしょうか。

2012年11月19日月曜日

山陽鉄道の寝台車

明治33年5月6日 …徳山より始めて寝台車に乗る… (小倉日記)

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 日本初の寝台車は、山陽鉄道に明治33年4月に導入されたものだそうだ。鴎外は、その導入直後にこの寝台車に乗ったことになる。大阪と三田尻の間に導入され、一等車の一両を半分に分け、食堂車と寝台車として利用されたということです。

 定員は16名、料金は2円だったといいます。当時の教員の初任給が8円くらいとのことですが、今の値段ならいくらになるのでしょう。やはり鴎外は超エリートだったのですね。

2012年11月18日日曜日

千壽製紙有限会社

明治32年9月9日 上流に千壽製紙会社立ちて、河水汚濁し、生洲によろしからざる…(小倉日記)

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 昭和40年頃、小倉北区を流れる紫川の水は濁り、悪臭を放っていた。十條製紙からの廃液による汚濁が原因であったようだ。鴎外の頃既に、千壽製紙会社として存在していたようで、鴎外が食べた鰻があまり美味しくなかった理由の一つとして挙げられている。

 その後明治42年には、王子製紙の小倉工場として改組され、さらに十條製紙に継承されたそうである。

 現在では、その工場もなく、紫川も水が綺麗になり、異臭などもなく、魚が川に戻ってきている。

菅原神社

明治32年7月31日 夜天満宮に詣でて祭りを看る (小倉日記)

 ここに出ている天満宮とは、小倉北区古船場にある菅原神社のことらしい。私はこの神社のことは全く知らなかったが、ご祭神は菅原道真とのことである。鍛冶町の鴎外宅からなら10分とかからない距離にある。

 大宰府に流される途中に立ち寄ったとされる場所に、道真が亡くなった翌年に建立されたとされている。明治13年に、小倉近辺の神社を合祀したとのことだから、鴎外が訪れた時は、小倉の氏神さまを祀った場所、ということになるだろうか。

2012年11月15日木曜日

充実した日々

 休みなき精進の生涯であったと語られるように、小倉での鴎外の日々も決して安逸に流れるなどというものではなかったと思われる。文筆活動という意味では雌伏のときであったかもしれないが、一人の人生とすれば、日々を確実に積み重ねていたと感じる。

 日々の公務。小倉のみでなく、福岡、熊本その他の師団、衛戍病院の視察。 演習の参加、統括。クラウゼヴィッツ「戦論」の翻訳および将校への講義。水質に関する調査。地元の求めに応じての講演。即興詩人の訳出。東京及び地元の新聞への寄稿。会議のための上京。フランス語の勉強。唯識論の勉強。名所、旧跡、地方史の研究。再婚。

 主なところを羅列するだけでも、随分することが多い。これに日常の些事も含めると、だらだらとした時間などほとんどないのではなかろうか。充実した日々を送っていたと思われる。ちなみに、普通の軍医部長ならば、鴎外が小倉にいた2年10ヶ月をかけても、鴎外が訳出した部分の戦論の翻訳すらなしえないだろうと思う。ただただ驚くばかりである。

2012年11月14日水曜日

寄稿

 鴎外は、西日本新聞の前身である福岡日日新聞や、今はない門司新報などに寄稿をしている。その数は、講演の筆記録を掲載したものを除けば、
「我をして九州の富人たらしめば」
「鴎外漁史とは誰ぞ」
「小倉安国寺の記」
「小倉安国寺古家の記」
「和気清麻呂と足立山と」
「即非年譜」
の6編に過ぎない。

 一方、東京日日新聞や二六新報など東京の新聞へは、「隠流」や「千八」などというペンネームを使って、森林太郎であることがわかりにくくはしながらも、いくつかの連載ものなどを寄稿している。

 小倉への左遷は、文筆活動に眼を付けられたという面が全くないとは言えないわけで、鴎外としても控えていたという側面があるだろう。しかし、やはり眼は東京に向いていたというところが最も大きいような気がする。

 鴎外漁史とは誰ぞ、の中で鴎外は死んだとしながらも、いや実は死んではいないと言い続けていたということだろう。

2012年11月13日火曜日

謫せられ

 小倉時代というのは、鴎外の人生にとって幅や深みを持たせる上で、重要な日々であったろうという印象が強い。後になって眺めてみると、鴎外にとってもそうであったろうと思います。

 しかし、赴任から1年3ヶ月頃の書簡であろうと思われる母親への文面をみると、まだまだ小倉に追いやられたことに対する心の整理なんぞついてなさそうです。

 私の勝手な意訳が入りますが・・・
「小池局長は学問力量の上ではそれほど私より勝ってなどいないだろうと思われる。そんな局長の指示通りに赴任し、しろと言われることを行い、そのどれも馬鹿らしいとか無駄とか思わぬようにしている。・・・※罪によって遠方に流されているのを苦にせず負けずにやっているのは、名誉であると思えば思えないこともない。・・・」
なかなかウジウジしたためているのです。

 ここで※印のところは「謫せられ」という言葉を使っています。謫とは罪によって遠方にに流されることを意味するわけで、鴎外とすれば、故あって島流しにあったような心情だったことを端的に示していると思います。

 では罪とは何だと思っていたのでしょうか。私は医師だからどうしても脚気のことが気になります。日清戦争や台湾出兵の際は戦闘自体より脚気で命を落とした兵のほうがはるかに多かったとされています。その責任は林太郎一人のものではありませんが、何のお咎めもなかった石黒忠悳などの責任も含め詰め腹を切らされたというところではないか、というのが今のところの私の印象です。陸軍内部はもちろん、公に陸軍の白米食を批判していた海軍などに対して、責任を取らせたことを示したかったのではないでしょうか。

2012年11月12日月曜日

観潮楼

 鴎外が約30年か居したという自宅が文京区にあった。その2階から遠く品川の海を望めたことから、観潮楼と名付けたという。

 その観潮楼跡に、森鴎外記念館が出来たとのこと。生誕150周年記念事業の一つとして行われたようです。

 その文京区のHP上で、Youtubeで「知りたい!森鴎外」という番組を見ることができます。鴎外のことについてちょっと知るのに、わかりやすい番組です。興味も広がります。みなさんも覗いてみてはいかがでしょう。


http://www.city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_academy_moriougaikinen_ougaiseitan150.html

2012年11月11日日曜日

鴎外漁史

 漁史という言葉にどのような意味あいが含まれているのかわかりませんが、雅号の下につけて用いる言葉のようです。林太郎も鴎外漁史のペンネームで文章を発表したことがあるようです。

 小倉赴任後に、福岡日日新聞の求めに応じて森林太郎の名前で載せた一文の紹介に、森とは鴎外漁史のことだとの注釈がついていたそうです。再度寄稿依頼が来た折に書いたのが「鴎外漁史とは誰ぞ」という一文です。青空文庫で読むことができます  ⇒ http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/45270_19219.html
 
 このなかで、自分は中央文壇と称される世界とは別世界にいること、学問や軍務に精進していること、自身が書いた小説は短編4編ほどしかなくそれに費やした時間は1週間程度であること、鴎外漁史という作家はすでにいないといえるが林太郎はしっかりと元気にやっているということなど、自分の立ち位置を述べている。寄稿依頼の際には文壇評を求められていたのだが、文壇を離れているので書けない旨を述べている。しかし、最後には現在新たに文士として登場しているものは末流であるなどとしっかり批評を書いている。

 論の流れは面白いが、読んで心が清々するような一文ではありません。鴎外自身の気持ちも複雑だったのでしょうね。

2012年11月10日土曜日

登志子



登志子
 鴎外の最初の妻は、海軍中将赤松則良の娘登志子である。この結婚はうまくいかず、1年ほどで離婚に至っている。原因は林太郎と登志子の不仲とするものが多いようだが本当だろうか。

 この結婚は、鴎外が動いたというより、周りが動きお膳立てした、家と家の結婚という色彩が強いように感じる。鴎外がドイツ留学から帰国直後の、エリーゼ・ヴィゲルトにまつわるごたごたを早く過去のものとしたい、との思いが森家特に母親に強かったせいもあるだろう。そのような結婚が、現在のように気が合わないくらいで解消されたりするものだろうか。

 登志子が病によりこの世を去ったのは、明治33年1月28日。鴎外は小倉で受け取った親友賀古鶴所からの封書に同封された新聞記事の切り抜きで、2月4日にそのことを知った。同日の日記には、「ああ、これは私の前妻である。長男於菟の母親である。美人とはいえないが、色白で背の高い女性でした。和漢文を読むことができ、漢籍などは白文でもすらすらと読んだものです。ちょっと理由があって1年ほどで別れました。今日は小倉の島根県人会が開かれるのだけれど、私は病気ということで参加はしませんでした。」というような一文がしたためてある。

海軍中将 赤松則良


 この文章からは、登志子のことを恨んだり憎んだりしていたとは、とても思えないのです。

 もし、この結婚がうまく行っていれば、海軍中将の義父と陸軍軍医の林太郎が会食などして打ち解けて話すようなこともあったでしょう。そして、海軍が取り入れていた麦食に関しても、陸軍が拘ることなく白米食から麦も提供するというふうになったかもしれません。そうなれば、陸軍から何万もの犠牲を出した脚気死者を激減させることができていたのではないかと夢想してしまいます。歴史に「もし」はないとはいえ。


2012年11月9日金曜日

舞子駅

 兵庫県明石の東に舞子駅がある。鴎外は、小倉へ赴任する途中6月18日の日記で、「軍医部長になるよりは、舞子駅駅長となる方がましであろう」というようなことを書いている。日記中、都落ちに対する悲嘆と取れるような記載があるのは、ここだけのようだ。

 わざわざ舞子駅などというのを出してきたのは、菅原道真が都落ちしていく際に、明石駅(駅家は厩のことらしい)駅長に対し、「一栄一落是春秋」と述べた故事を踏まえているとの説もあるようです。そういう事実があるのかもしれませんが、それなら鴎外もあっさり明石駅駅長と書けば良さそうなものだとも思います。

 たまたま舞子駅で、ここの駅長となるほうが師団軍医部長よりましだ、と思わせる心象風景が出現するような何かがあったのではないでしょうか。それが何かはわかりませんけれど。

2012年11月8日木曜日

門司ー赤間 連絡船

 鴎外が小倉にいた頃の門司駅は、現在の門司港駅のすぐ近くだったとのことである。鴎外が小倉へ赴任してくるときは、山陽鉄道は徳山までしか開業しておらず、そこからは船で門司まで来ている。明治34年5月に徳山から赤間(現在の下関)まで開通し、門司(門司港)ー赤間(下関)間の連絡船も就航している。

 明治34年12月29日 始て新連絡船を用ゐる 

 鴎外はこの時始めて、門司ー赤間間の連絡船に乗り、上京したことになる。この後も、しばらくはこの門司駅が九州の玄関口としての役割を果たしていたわけだが、関門トンネルの開業に伴い、1942年にそれまでの大里駅が門司駅となった。トンネルの出口がそれまでの門司駅よりずっと小倉よりになったためである。

 九州の玄関口としての門司港は、その役割を終えたことになる。現在はレトロ地区として再開発され、年間200万人程度の観光客が訪れると公表されている。

2012年11月7日水曜日

衛生隊演習

 通常は9時出勤、3時帰宅という公務員生活を送っていた鴎外も、演習などは随分大変だったのではないかと思います。衛生隊の演習となれば、軍医部長である鴎外が統括するものであったと推測します。
 
 演習場所も小倉から離れた場所まで衛生隊を移動して行うこともあったようです。小倉日記中には、天気は雨であることと、演習をしたということくらいしか書いてありませんが、兵隊さんは徒歩、鴎外にしても馬での移動でしょうから雨だと大変です。実際当時の地方新聞には、膝まで泥につかりながらの演習なども報じられていたようです。

 明治34年7月9日には、演習の帰りに「金邊嶺をこえて小倉に帰る」とあります。今でこそその場所はトンネルができており、小倉から南に行く際の主用道路となっていますが、当時はかなりの急登坂だったはずですから、その一行でも大変さが伝わってきます。

2012年11月6日火曜日

小倉三部作

 小倉日記は、基本的に事実の羅列であり、私などは最初から最後まで通読しようという気にはならない。ところどころ気になるところを拾うという感じにどうしてもなる。当然読んでいて引き込まれるというような読み物でもない。

 そんな愛想のない日記に幾ばくかの色を添えてくれるのが、小倉を舞台とした三つの小説、『鶏』『独身』『二人の友』である。小倉を離れ、鴎外が医務局長というトップに就任した後、一気に文章を発表し始めるのだが、その頃になって書いた小品である。

 小説であるから当然フィクションが入っているだろうが、鴎外の日常、小倉の町の雰囲気、人間模様、習慣などを垣間見ることができるように思われる。これらの小説を読んだ後に小倉日記を眺めると、そこに少し血が通うように感じられるのである。

2012年11月5日月曜日

左遷?

 鴎外が陸軍軍医監に昇進し、第十二師団軍医部長と決まったのは明治32年6月8日付けで、その辞令を受け取ったのが同月10日、小倉に向かい新橋を出発したのが16日とのことです。随分慌ただしいものですが、これが普通だったのでしょうか。

 この小倉への赴任が左遷なのかどうかは、多くの人が論じていますが、最終的には陸軍軍医総監となり、陸軍省医務局長という陸軍軍医としてのトップまで上り詰めたわけですから、そこへ至るまでの一過程ということでしょう。

 鴎外の心情としては、やはり都落ちだったと思われ、母親に当てた手紙では左遷と考えていることが語られていたとのこと。軍医としての出世というだけでなく、中央の文壇から離れ、慶応義塾での解剖学や美学の講義はできなくなりという具合ですから、心楽しまぬのも当然でしょう。ただ建前としては、人事権をもつ小池局長の心労をいたわったり、望外の栄転などと語ったりしていたようです。

 一方で、当時の小倉はロシアの南下政策に対抗するための重要な兵站地(前線に必要な物資を送り出す基地)としての発展が重視されていた場所です。そこでの軍医部長が、衛戍地としての精度を上げるために大いなる責任を課せられていたのも事実でしょう。その点では、やはり能力を認められ期待されての栄転ともいえるのかもしれません。

 辞令交付後に辞職すら考えたといわれる鴎外だが、小倉赴任後に軍医部長としての職務に励んでいたのは、やはりその重要性を認識したからではないでしょうか。

2012年11月4日日曜日

貝原益軒


 鴎外は第12師団軍医部長の間、小倉だけでなく、福岡、佐賀、熊本、大分と広範囲の視察を行ったいました。視察を兼ねて旧跡などを訪れることも楽しみとしていたようです。福岡の衛戍病院などを視察した際には、貝原益軒の墓を訪れています(明治32年9月26日)。

 貝原益軒は福岡藩(黒田藩)に仕えており、薬草学や朱子学など広い知識を持っていたようです。益軒は江戸時代初期の人で1630年に生まれ、没年は1714年というので85歳という長命の人でした。83、4歳頃に養生訓を書き上げた養生の専門家であるだけのことはありますね。

 そんな益軒が養生の実践としてあげていたものの一つに、食後の散歩があります。食後はすぐ横になったりせずに、数百歩の散歩をすることにより、食気を十分巡らし解消することを勧めていたのです。

 鴎外の書簡によれば、鴎外は食後に小倉の街を一時間ほどぶらぶらしていたようです。養生訓の教えを実践していたのではないかと、私は勝手に想像しています

2012年11月3日土曜日

貝嶋太助

明治33年10月5日 「・・・富豪貝嶋氏に舎る。・・・五十歳許りの偉丈夫なり。・・・(小倉日記)」

鴎外は、直方方面の視察に際し、かつて九州の炭鉱王の一人とされた貝嶋太助の豪邸に宿泊している。その時に会った貝嶋氏の印象を偉丈夫と形容している。偉丈夫というのは体が大きくしっかりしているという意味もあるが、立派な人物をさすこともある。おそらく鴎外はその両方の意味を込めて語っているのだろうと思う。

簡潔な文章で綴られている小倉日記の中にあっては目に付くほど、貝嶋太助のことについて記載している。太助の偉大さを長子から聞かされたという側面もあるかもしれないが、興味を持たなければわざわざ日記に書きとどめたりはしないだろう。邸宅のつくりや集められた書画なども、鴎外を驚かすものであったようだ。

太助は、父親の死もあり幼少から坑夫として働き、明治初頭からは炭坑業を行い、西南戦争に伴なう石炭価格の高騰で莫大な利益を上げたという。

活況を呈した石炭産業ゆえに、お金をばら撒く人がいたから、鴎外が人力車に乗せてもらえなかった事件もあったわけですが、貝嶋邸への宿泊で、鴎外が鉱業主を見る眼も少し変わったかもしれませんね。

なお、小倉日記の記載に倣って貝嶋と書いていますが、貝島と書くのが正しいようです。

2012年11月2日金曜日

福間博

福間 博

 明治八年に島根県に生まれ、同二十四年に上京してドイツ語の勉強をしています。鴎外が小倉へ異動となったのを知り、福間も小倉にやって来て、鴎外の押しかけ弟子になったというところでしょうか。


 小倉日記によると、明治32年10月12日に突然鴎外宅を訪れて、「東京にいるときから先生のことは知っていたがお忙しいようなので先生の教えを受けたいなどといえなかった。今はこちらに異動となり少しはお時間があるでしょうからぜひドイツ語を教えて欲しい。こんな遠くまでやってきたのだから無碍に断ったりはしないでほしい。」とかなんとか言ったようです。教えを請うにしては、かなりの押しの強さですね。その様子に鴎外は「狂人ではあるまいか・・・」とまで思ったようですが、試しにその辺にあったドイツ語の本を読ませると、百に一つの誤りもないという実力であり、その後師匠と弟子の関係になったようです。

 鴎外の世話で、山口高校の教職を得たようですが、鴎外が東京に戻るにあたりその職を辞して上京し、鴎外宅近くに住んだとのことです。そして明治38年4月から明治45年2月に病死するまで、第一高等学校教授として教鞭をとり、芥川龍之介や菊池寛もその授業を受けています。やたらと文法にうるさいドイツ語教師だったようです。

 また再上京後、女性関係でごたごたもあったようですが、詳しくは調べていません。

2012年11月1日木曜日

篠崎八幡宮

篠崎八幡宮
小高い丘の上に篠崎八幡宮があり、紫川や小倉の街を見わたすことができる。

 鴎外はこの神社の宮司であった、川江直種と親しく語り合ったことがあると小倉日記に記載がある。境内には、直種に関する記念碑のようなものはなさそうであるが、門司港の甲宗八幡神社境内にはその歌碑が建立されているらしい。宮司であり歌人であったとのことである。

 直種は九代藩主の小笠原忠幹に命じられ、1862年に別殿を造立させたとのことなので、1900年当時には少なくとも60歳近くにはなっていたと思われ、鴎外よりはかなり年上である。

 小倉での鴎外の交友範囲はかなり広そうである。鴎外が高名であるが故に人が近づいてくる、という面が強いであろうが、鴎外自身も人と接することが決して嫌いではなかったのであろう。

2012年10月31日水曜日

矢頭良一

「明治34年2月22日 雪。当国築上郡岩屋村の人矢頭良一といふもの来訪す(小倉日記)」

写真は北九州市小倉北区にある鍛冶町の鴎外居住地趾にかけられている、鴎外の書いた掛け軸の複製です。最初に見たとき、なぜこのような掛け軸を書いたのかわかりませんでしたが、これは矢頭良一が夭折した際に、鴎外が遺族に送ったものとのことです。

矢頭了一は、鳥の飛翔原理に興味を持ち、豊津中学校(後の県立豊津高校、現県立育徳館高校)を16歳の時に退学し大阪へその勉強をしに行ったそうです。帰郷後、研究を重ね完成させた自動算盤機と飛行論文を携え、上記22日に鷗外を訪ねたようです。自分の研究内容や、飛行機の必要性などを、きっと熱く語ったことでしょう。また、このようなものを持ってわざわざ訪ねようと思わせる実力を鴎外は持っていたということでしょう。

実際、鴎外の紹介で矢頭了一は東京に出て、自動算盤機(日本初とされている模様)を商用に開発し、その販売によって得た資金を下に飛行機開発研究を行っていたそうです。しかし、その無理がたたり31歳で夭折。そこまで聞くと、写真の掛け軸の意味がわかってきますね。

なお、豊津中学の元は、小笠原藩の開いた藩校である思永斎であり、同じ福岡県立高校の小倉高校と源流は同じということになる。ちなみに、シンガーソングライターの永井龍雲(http://www.youtube.com/watch?v=XCfQUZ57dKM)は豊津高校出身です。鴎外とは関係ないか…




参考

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E9%A0%AD%E8%89%AF%E4%B8%80

2012年10月29日月曜日

鍛冶町の居住跡

  清張の「或る小倉日記伝」の主人公のモデルとなった田上耕作氏が、鴎外の居住趾を探し当てたとされている。写真は、それを示す碑を建てたのを記念した写真とのこと。このことは当時話題となり、新聞にも掲載されたらしい。
その後、資料や人の話などを総合して、旧居の姿を可能な限り再現されたのが、現在のもの。
玄関前の庭には、鴎外の胸像が据えられ、観覧者を迎えてくれる。

2012年10月28日日曜日

心頭語


 明治26年に創刊された、二六新聞という日刊紙があった。創刊後2年ほどで一旦廃刊となり、明治32年に再創刊されている。鴎外はちょうど小倉赴任中の明治33年から34年にかけて、「心頭語」という一文を連載していた。その頃この新聞は日本の日刊紙として最高部数を発行していたとのこと。

 心頭語は、ドイツ人クニッゲ作の「交際法」を鴎外が抄訳しつつ自分の考えも交えたというもので、千八という名前で投稿していたため、鴎外の仕事とはあまり知られてなかったとのこと。

 どれくらいの頻度で寄稿していたのかはわからないが、軍務の合間に定期的に一文を成すということは、普通の人間ならかなり負担になると思う。しかし、鴎外にとっては、書く事が負担とはならなかったのでしょう。

2012年10月27日土曜日

葉巻

 森林太郎は葉巻が好きだったようで、小説の中にも時々葉巻に関するくだりがある。小倉時代を表現したと言われる「鶏」の中にも、【…石田が偶に呑む葉巻を毛布にくるんで置くのは、火薬の保存法を応用しているのである。…】との表現がある。石田というのはモデルが林太郎自身とされているので、鴎外も毛布にくるんで葉巻を保存していたのかもしれない。

 小倉から母親に宛てた手紙の中では、【…晩食し直ちに葉巻一本咥えて散歩に出て申し候一本がなくなるまで小倉の街を縦横無碍に歩めば…】と書いており、食後の一時間ほど小倉の街を葉巻を加えながら逍遥していた姿が見えてくる。

 食後の緩やかな散歩は、体に良いとされており、鴎外も【至極体によろしく候】と書いているが、葉巻を呑みながらでは散歩の効果は相殺されたかもしれませんね。

2012年10月26日金曜日

葫蘆

明治33年10月から翌34年7月までの間、鷗外は犬を飼っている。門司の人から買い受けたようだ。長毛で白黒の小犬のようである。

「ころと呼べば即ち来る。更めて葫蘆と名づく (小倉日記)」

葫蘆というのは夕顔や瓢箪を意味するようだ。なぜそのような名前をつけたのかはわからないが、ころという響きにこの漢字をあてただけのような気がする。犬を表すのに夕顔ではピンとこないし、瓢箪とも違うような気がする

ひょっとすると、瓢箪の川流れ、という表現が合うような、ふらふらうろつきまわり、うきうきと落ち着きのない犬だったのかもしれませんね。

それにしても独身の鷗外が、どのような顔をして犬と接していたのでしょう。一人身には小犬慰めとなったのでしょうか。

2012年10月24日水曜日

京町住居跡碑


 小倉駅南口側にあるエスカレーターを降りたところにある、京町住居跡碑である。碑文にはこの碑より南25mの場所に住居があったと記されている。


 しかし、この碑の足元に埋め込まれば説明にあるように、現在の碑がある場所が実際に旧居があった場所とのことです。当初小倉駅ロータリーに設置されたものが、小倉駅前の整備に伴い移設された場所が、ちょうど旧居あとだったようです。納まるべきところにおさまったということですね。

 これは、昭和33年ころの小倉駅南側の写真です。まだロータリーの整備はされておらず、当然碑もありません。時代は流れます。

2012年10月23日火曜日

小倉城


 昭和34年に概観復興された、小倉城の天守閣。1837年に焼失して以来の復興となった。

 鴎外が勤務した陸軍軍司令部は、リバーウォーク側からみると、この天守閣の向こう側になる。もちろん、鴎外のころにはこのような天守閣を望むことはできない。しかし、城壁やお濠などは存在していたと思われる。

 市民に憩いの場を提供している、城内周辺は、気持ちの良い空間が広がる。風景が異なっていたとは言え、鴎外もこの界隈を逍遥したのであろう。なお、写真の方向を向いて経てば、左斜め後ろ方向に、偕行社が有ったことになる。

2012年10月20日土曜日

逹見旅館

鴎外が小倉に到着して最初に投宿したのが逹見旅館です。その後玉水旅館となり近年までは残っていたようですが、4年ほど前に和服のお店がそこを借り受け営業をしています。

 写真がそのお店です。建物自体は玉水旅館のときのまま使用しているそうです。たまたま外で一服されていたお店の方にお聞きすると、この建物の持ち主の方は写真左奥に今もお住まいとのことです。お話をお聞きしたいような気もいたしましたが、いきなりわけのわからぬ人間が押しかけるのも失礼と考え、思いとどまりました。

 それにしても、やっと逹見旅館の場所がはっきりしました。この右手に行くと、小倉から長崎へ向かう長崎街道起点があり、そこに鴎外が登庁時に渡っていたであろう常盤橋がかかっています。

乃木希典居住宅の趾

室町あたりを散策した後、リバーウォークあたりを自転車で行き過ぎようとしたとき、偶然見つけました。リバーウォークと小倉城址のお濠との間にありました。

 歩兵14連隊長心得として明治8年12月から10年2月まで、乃木希典が居住していた場所。

 森林太郎と乃木希典の関係は調べていませんが、お互い心通ずるところがあったようです。ドイツ留学の時期も重なっていたようで、そのあたりからの繋がりかもしれませんし、森が津和野、乃木が長府出身というふうに、出身地がかなり近いということもあるかもしれません。

 森林太郎が小倉に赴任するために東京を発つとき、見送りはほとんどなかったとのことですが、乃木希典は見送ったと記録されています。

 また、乃木希典とその妻が自刃した後5日ほどで、森鴎外が「興津弥五右衛門の遺書」という小説を書き上げ、その死を否定的に捉える意見から擁護しようとしたとされているようです。

 
参考  Wiki  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8
     北九州文学散策  http://dendenuta.exblog.jp/6792616/




2012年10月19日金曜日

歩兵第14連隊の碑

歩兵第14連隊の碑

 北九州市立中央図書館の敷地内に、歩兵第一四連帯の跡であることを示す碑が建っている。写真の後方に見えるのが図書館の建物だが、この碑に気づく人は少ないだろう。この図書館はよく利用するのだが、私も本に出ていたので初めて知り、探しに行って見つけた次第。

 この連隊は、鴎外の主たる職場である軍司令部の近くにあり、小倉日記の中でもその名が何度か出てくる。1904年にはこの連隊も日露戦争へと出兵している。

 連帯の占めていた場所は、図書館や公園となっており、恐らく近くの弓道場などもその敷地内だったのだと思われる。一時期乃木希典もこの近くに住んでいたらしいが、その場所はまだ調べていない。

2012年10月16日火曜日

京町の住居

京町の鴎外旧居
6:明治31年の市街図
6番が鴎外旧居の場所で
4番が三樹亭

 現在小倉駅前魚町側のエスカレーターの足元に、鴎外旧居の場所を示す碑がある。駅前開発などに伴い3回場所を変えたようだが、現在ある場所が、たまたま旧居のあった場所と一致しているという。鴎外お気に入りの三樹亭は、そのすぐ近くにあったのですね。

 最初に住んだ場所が、地図の10番のところ。そこに比べて、京町は当時の歓楽街のすぐ近く。職場に近づいたとも言えるが、やはり少しは賑やかな方が好きだったのですかね。

2012年10月15日月曜日

三樹亭

三樹亭の宴会場
鴎外がしばしば会食に利用した三樹亭の宴会場の写真とのこと。明治中期の小倉に存在したものとすればかなりおしゃれな場所であったようだ。ここには美人姉妹がいたとのことである。



その後、三樹亭はなくなり、カフェライオンとなったとのこと。
このカフェライオンでは松本清張が芥川賞を受賞した際の
祝賀会が行われたということ。
しかし、現在ではこのカフェも存在しない。


 これら三樹亭やカフェライオンがあったのは、京町のようなので、鴎外の2番目の住居のすぐ近くだったと思われる。三樹亭に関する資料を、私は今のところほとんど見つけることができていない。美人と言われる姉妹の写真や、提供していた料理などがわかると面白いのですが。

2012年10月13日土曜日

偕行社の変遷

初代

2代

3代

 この写真は、小倉偕行社の変遷を示している。鴎外の小倉日記には、将校への講義や訪問客との食事の際などにこの偕行社を利用したとの記事がよく出てくる。2代偕行社の落成が、明治35年1月とのことなので、鴎外が東京を戻る直前に完成したことになる。クラウゼヴィッツの戦論の講義などは、主として初代偕行社で行ったことになるだろう。

 初代の写真右下には、勝山橋の文字が見えるので、手前の広い道に見える場所は、紫川にかかる橋と思われる。わたしが見つけた明治33年の小倉市の地図では、常盤橋しか描かれていないが、その後勝山橋もかけられたのだろうか。だとしたら、鴎外はこの橋もわたっていた可能性がある。

2012年10月12日金曜日

松本清張

 松本清張の小説に、「或る『小倉日記』伝」というものがあります。これは、小倉日記が見つかる前に、小倉での森鴎外の行動を調べていた田上耕作という実在の人物をモデルにした小説です。ただ、実際の人物とはかなり違った人間として小説では描かれているそうです。

 清張は1909年12月21日に小倉で生まれた、と戸籍上はなっています。しかし実際は、広島で同年の2月12日に生まれ、その後小倉に家族が移り住み、小倉で書類を提出したのではないかとも言われています。

 清張がどのような経緯で田上耕作、さらには森鷗外に興味を持ったのかはわかりませんが、鴎外が亡くなったのが1922年ですから、清張が幼少だったとは言え、二人は同時代を生きていたのですね。

 なお、北九州市小倉北区には、松本清張記念館があります。下記がそこの公式HPです。

         ⇒   http://www.kid.ne.jp/seicho/html/index.html

清書された小倉日記

 私たちが小倉日記として読むものは、鴎外自筆の日記をもとにしたものではないそうだ。実は小倉を去った後に、小倉での日記を清書しなおしてもらっているとのこと。清書しなおすということは、公開を前提としたものということであろうから、その過程で加筆や削除が行われたと考えるのが普通だろう。

 公開するとなると、清書の時点でいろいろな思惑が働くはず。日記を書くときにはそのまま書いたようなことでも、あとになって都合が悪いと考えれば、削除したような不都合な真実もあったはず。

 この清書された小倉日記は、一時期その所在がわからなくなっており、小倉での鴎外の暮らしをしる手がかりがほとんど無い状態だった。しかし、昭和26年になって親戚宅から見つかり、当時の行動を垣間見ることができるようになった。

 ところで、自筆の小倉日記は存在しないのでしょうか。あるならその内容を見てみたいものですね。

2012年10月11日木曜日

軍馬

 小倉赴任時の林太郎は、帝国陸軍の少将相当にはなっていたと思われ、乗馬本文者と言って馬に乗ることを義務付けられていたようである。小倉赴任の際には、東京から2頭の馬を連れてきていた。吉野と松島の2頭である。その後松島は部下に与え替りに北斗という名前の馬を買ったようだ。

 なにせ生き物だから体調の良し悪しもあるであろうから、2頭の馬を飼っておく必要があるのだろう。普段の通勤(司令部への登庁)や北方の視察などにも、馬を使用していたとのこと。

 当時の小倉の街を、馬で進みゆく姿というのは、目立ったことでしょうね。

2012年10月10日水曜日

脚気減少は果して麦を以て米に代へたるに因する乎

 鴎外、森林太郎について概観する際、脚気問題は避けては通れないだろう。

 これまで私は、陸軍と海軍、ドイツ医学とイギリス医学、西洋医学と漢方医学という対比の中で、あるいは、東大医学部ひいては当時の医学会の趨勢という観点から、兵士に提供する主食をあくまで白米で通すという林太郎の態度もやむ無しと考えていた。しかしいくつかの本を読むうちに、日清戦争や台湾赴任の際に多数認められた脚気患者、特に脚気による死亡数から見て、森林太郎は何か手段を講じるべき立場にあったはずだと感じるようになった。

 森林太郎が小倉に赴任した後、小池局長が陸軍大臣に対して上申した内容は、白米主義が脚気発症の多いなる要因であることを述べたものである。その内容は実に簡潔明瞭であり、拘りなく聞けば、兵食を改める方向へ進むのが普通だろうが、上記タイトルの一文を発表している。小倉という、中央から離れた場所にいて少しは客観的に見ることができそうなものだが、離れているがゆえに中央とのつながりを意識したのか、あくまで主食に麦を混ぜることに反対する文である。

 林太郎は明らかに方向転換するチャンスを逃した。そして、数年後第一師団軍医部長として赴いた日露戦争において、戦死者以上の脚気死亡者を出してしまったのである。

 鴎外のこの態度は、現代の薬害にも通ずるものがある官僚の態度とも言える。これは鴎外の人生において、大いなる汚点と思われるが、本人はその点につき語ることはなかったようだ。多数の兵士が戦争そのものではなく、脚気で死亡した事実に対する大いなる責任は林太郎にもあるというのは否定できない事実だろう。同じ日露戦争で、白米とともに麦も兵食として提供した海軍やいくつかの陸軍の部隊において脚気死亡がほとんどなかったことを見ても、実に残念なことである。

2012年10月9日火曜日

役所

 独身という小説の中で、鴎外をモデルとしたとされる主人が、「それは有難う。明日役所から帰る時にでも廻って見ましょう。・・・」と語っている。フィクションの要素も多分にあるのだろうが、鴎外は自身の仕事を役所勤めであると認識していたのだろうと思う。

 森林太郎軍医部長の勤務は朝の9時から午後3時まで。医師として働いているわけでもないので急患もない。また教会の神父からフランス語を習う日には、一旦帰宅後服を着替え、歩いてきちっと遅刻せずにやって来たとのことだから、定刻に帰宅できていたはずである。

 役所勤めでも、木っ端役人はいろいろと仕事が廻ってくるだろう。悠々と帰宅できるところ、やはり地方赴任時の高級官僚という立場になる。

 鴎外が学生当時の東大医学部は、東京医学校の体制である甲乙二部制をとっていたようで、鴎外はその甲(本科生)に進んでいる。本科生は卒業後は主としてドイツへの留学を経験した後に、官途あるいは軍医として採用されることになっていたそうで、母親などの希望も強かったかもしれないが、もともと鴎外は官僚志向であったと考えられる。

2012年10月7日日曜日

広寿山 福聚寺


 鴎外は小倉赴任中に、志げさんと再婚している。
その志げを伴って、小倉の南方にある足立山の麓に存在する
広寿山福寿寺を訪れている。

 この寺は黄檗宗の名刹で、小笠原藩の初代藩主である小笠原忠真(ただざね)が
同家の菩提寺として創建したとされる。

 寺の入口が主要道路からではわからないので気が付きにくいが
かなりの広がりを持つ立派な寺院である。そういえば、近くを走る
バス停の名前に山門町というのがあるが、この寺の山門にあたる
ことから付いているのかもしれない。 

2012年9月29日土曜日

別当


 明治34年7月3日 午前六時小倉を発し、葛野村に至りて演習し、曽根に午餐す。苅田に至る比、北斗疲れて進まず。(小倉日記)

 北斗というのは鴎外が使っていた馬の名前と思われる。小倉から曽根を超え苅田に向かう途中まで歩かせたとなると、鴎外の自宅と衛戍病院との距離の3倍以上は歩かせたことになる。このあと、汽車で行橋に向かったようだが、馬はどうしたのかと疑問になる。

 鴎外の小説「鶏」の中に別当という言葉が出てくる。別当と言われると位がそこそこ高い人を指すように思っていたのだが、ここに出てくる別当は、厩務員をさすようだ。馬の世話をし、鴎外が馬を使うときにはそれを曳いていたのだろうか。それなら北斗が疲れて動かなくなったあとは、この別当が連れて帰ったことになるのだろう。

 やはり鴎外は、お抱え運転手付きの高級官僚というところだ。

2012年9月25日火曜日

衛戍病院と輜重兵営全景


新設第壱弐師団輜重兵営及び衛戍病院全景
  これも陸上自衛隊小倉駐屯地ないの資料館にあった写真である。左方の建物が衛戍病院で、その後方に広がる多くの兵舎が輜重兵営だと思われる。この写真の左奥方向にも軍施設が広がっていたはずである。また、写真の右方向が12師団の中心となる軍施設が広がっていたわけで、実に広大な規模である。

 鴎外が軍馬にまたがり巡視するにも、一日ですべての施設を看尽くせないのは当然であったろう。

 衛戍病院が占める敷地だけでも、敷地が広いと感じる国立病院機構小倉医療センターよりも広いと推定される。第二次世界大戦ころ陸軍病院となっていた頃には、衛戍病院よりさらに広かったと聞いたこともある。

2012年9月24日月曜日

第十二師団の配置図

 陸上自衛隊資料館で拝見した図譜です。近代の地図をベースに明治32年頃の軍配置図を記入したものと思われ、きちっとした地図ではないので、どこまで正確化は検証できません。ベースとして参考にしている地図は、昭和40年前後のものと思われるのですが、国道10号線のすぐ南を走る日豊本線が描かれていないのが気になります。また、今は無き小倉鉄道の駅として足立駅と書いてあるのは妙見駅の誤記である可能性があります。

 ということで、正確さという点では疑問が残りますが、随分広い範囲に広がり、帝国陸軍施設が存在していたことはよくがわかります。

 当時の北方は野原か田んぼが広がる地域だったでしょうから、広大な敷地が必要な師団を配置するにはこの地が必要だったのでしょうね。

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明治32年7月14日・・・始めて北方に至る。歩兵第四七連隊及工兵営を看る。(現在の陸上自衛隊の敷地から北九州大学あたりにかけての視察ということになる。)

同15日・・・野戦砲兵及騎兵営を看る。(図譜南端あたりの視察。)

8月2日 輜重兵第十二大隊営及小倉衛戍病院を看る。(小倉日記中に北方の衛戍病院のことが出てくるのは、この日が最初である。上掲載図譜が無ければ、「北方を訪れれば、病院にもすぐ寄れただろう」などと勝手な想像をしてしまいそうだが、これだけの広がりがあればそうもいかない。鴎外が初めて北方にある小倉衛戍病院を訪れたのは、この明治32年8月2日である可能性が高いと思う。)

2012年9月23日日曜日

小倉衛戍病院正門


 撮影された年月日はわからないが、小倉衛戍病院正門の写真である。現在この場所は小さな公園となり、まっすぐ続く道の方は、福岡県立北九州高校や小倉南区役所などになっている場所と思われる。

 この写真は、現在陸上自衛隊小倉駐屯地内にある、資料館で見せていただいたものである。言葉で書かれてもよくわからないようなことでも、一枚の写真があると、かなり明確なイメージを描けるものである。

 資料館内には、鴎外に関わるような資料はほとんどなかったが、帝国陸軍の時代からの変遷が大まかにつかめた。またいずれ訪れたいと思う。


陸上自衛隊小倉駐屯地内の資料館入口の門

2012年9月22日土曜日

始めて小倉衛戍病院分院に至る


鴎外は小倉到着後12日目の明治32年6月30日に小倉衛戍病院分院を訪れている。
上の配置図で見ると、師団司令部の南西にほぼ隣接するように存在している。
もともとはここが衛戍病院そのものであったようだが、第12師団の誕生に伴い、北方の軍施設近くに移転となり、この病院が分院と呼ばれるようになったとのこと。

現在の北九州市立中央図書館前の広いエントランス広場あたりになるだろうか。そして歩兵第14連隊は市立図書館から周囲の公園、さらには小倉北区役所あたりまで含む範囲に広がっていたようだ。火薬庫という文字も見え、まさに軍施設という趣である。

明治時代の小倉駅

 最初の小倉駅ということになるだろう。鴎外もこの駅に降り立ち、この駅から東京へ戻ったのだろう。

 写真の説明では、場所は現弥生会館となっているが、現在ではそれもなく、おそらくヤマダ電機の出来た場所あたりになるのだと思われる。

 人力車や馬が、大切な交通手段だったのですね。
 鴎外も自家用として、2頭くらいの馬を飼っていたようです。

明治30年代の常盤橋

写真集で明治30年代の常盤橋との説明がついているものを見つけた
水害のたびに橋が流されたとの記録があるようなので同じかどうかわからないが
馬に乗り登庁する際鴎外はこの橋を渡ったのだろう

現在木の橋として再現されている常盤橋は
意外と昔の雰囲気を再現しているようだ

中央奥には松が見え
海岸線が今より随分陸側にあったのがわかる

2012年9月21日金曜日

福丸

明治32年7月9日  ・・・汽車に上りて直方に至る。人車を倩ひて福丸に至らんと・・・

 福丸とは若宮のことと思われる。直方駅から福丸までは10Km以上の道のりと思われる。鴎外は人力車を雇って行こうとするが、なかなか乗せてくれる車夫がいなかったようだ。何とか乗せてもらったが、その車夫からも2~3Km行ったところで降ろされてしまう。結局鴎外はそこから歩いて福丸までいったようだ。

 当時の北九州は、石炭で儲けた金持ちがおり、車夫に対しても定額以上の駄賃を払っていたとのこと。車夫にとっては、決まった料金しか払わぬ鴎外などの役人は有り難くない客だった。金が物を言うのである。

 この経験から鴎外は、福岡日日新聞(現西日本新聞)に「我をして九州の富人たらしめば」という一文を寄稿している。金があるならその使い方をちょっと人の世に役立つ方向に使えという内容のようで、北九州の地に文化の種を播いたとされるものの一つ。まあ、成金に対して一言いわせてもらうよ、といったところか。


http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/97.html

2012年9月19日水曜日

偕行社

明治32年12月12日…井上中将以下の将校予をしてクラウゼヴィッツの戦論を偕行社にて講ぜしむ。…   (小倉日記)

 偕行社とは、帝国陸軍が組織されて間もない1877年(明治10年)に、陸軍将校の集会所のようなものとして東京に設立されたもの。以後各地の師団司令部所在地に設立され、小倉の地にも存在していた。その場所は、師団司令部から近く、今のリバーウォークあたりに在ったようだ。



 また、北方の練兵場近く、今の北九州大学のある場所の一角にも偕行社があったそうだが、鴎外の時代に存在したかどうかはわからない。

 鴎外は、明治32年12月12日を皮切りに、定期的に小倉の偕行社で戦論の講義を行ったようだ。

 小倉偕行社の建物は現存しないが、他の地域に残る偕行社の写真を見ると、白塗りで洋風の洒落た建物だったと想像できる。

2012年9月17日月曜日

小倉市

 町村制が1889年に施行された際に、小倉城下の企救郡の中の25町が小倉町としてまとめられた。そして鴎外小倉赴任の翌年、1900年に市制施行により小倉市となっている。鴎外赴任当時の小倉は、新たに師団が置かれ軍人の往来が増えたとは言え、人口が2万人を僅かに超える程度であったとされ、寒村であったと思われる

 鴎外の小倉異動を、日露戦争に向け重要な小倉の軍医部長としたのは栄転とみる考えもあるようだが、当たり前に考えるとやはり左遷人事と感じる。八幡製鐵所の作られた八幡村などは、人口8000人程度であったようだ。

 現在の北九州市は1963年、小倉市、門司市、戸畑市、若松市、八幡市の5市が合併して誕生した。小倉市は小倉区となり、1974年には、小倉北区と小倉南区に分けられた。北方に存在した衛戍病院の流れをくむ小倉医療センターは、小倉南区に存在する。

2012年9月13日木曜日

Erwin von Bälz

明治32年7月28日
…午後六時ベルツ氏を停車場に迎えて、常盤橋東の銭屋に投宿せしむ。…
        (小倉日記)

 ベルツ氏というのは、ドイツ人医師である。日本にドイツ医学を導入するために東大医学部に招聘され、教授として教鞭をとっている。森林太郎もその教えを受けている。東大医学部の教授が、なぜわざわざ小倉に立ち寄ったのかは小倉日記には記載されていないようだが、鷗外との関係があったからだと思われる。

 当時の日本、特に軍隊においては脚気が大きな問題であったが、ヨーロッパなどではほとんど見かけることのなかった病だったようである。だから、ドイツ医学から脚気の原因を学ぼうとしても無駄な事だった。ベルツを含む外国人医師は、その原因を細菌などに求め、東大医学部としてもその説を採用していた。そして当然鴎外もその考えを踏襲していたわけで、それが鴎外の脚気問題となるわけである。

 江戸末期から明治にかけて、遠田澄庵という漢方医が、脚気の原因を食事に求めていた。ビタミンなどという概念のない時代においてそれは慧眼だった。しかし明治政府の方針は漢方医学を捨て去り、西洋医学を絶対とするものであったことも影響し、遠田の考えが明治の時代に広がることはなかった。

 ベルツが「今の日本に必要なことは、日本文化のすべての貴重な面を検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくり慎重に適応させていくことだ。」という旨のことを語っている。これは脚気騒動を見返すと、実に皮肉なことである。

2012年9月12日水曜日

鴎外旧居(小倉北区鍛冶町)


鴎外記念文学碑より
  鴎外が小倉に赴任して最初に住んだのは鍛冶町。「鶏」という小説にそのことが出てくる。小倉日記を読むと、小倉到着後、この家に移り住んだのは5日目。それまでは小説での描写と同様、雨模様だったようだ。

 鍛冶町の旧居は「森鴎外旧居」として保存整備されており、歓楽街の片隅に、今も静かに佇んでいる。無料で見学が可能で、落ち着いた時を過ごすことができる。

http://www.kitakyushu-city.com/kitaku/ougaikyukyo.html

2012年9月7日金曜日

鉄の街

 露国との戦争を視野に、日清戦争の保証金を使って完成した官営八幡製鐵所。その開業が1901年であることは日本史で習います。その後新日鉄となりますが、鉄の街と呼ばれた北九州の礎が誕生したわけです。

 明治34年11月17日。製鐵所作業開始式に臨む。

 どうも実際の開始式は11月18日に開催されており、小倉日記の日付とは一日ずれているようですが、森鴎外も、この歴史的スタートに立ち会っていたのですね。
 ただ、これ以後の、日露戦争、第一次、二次世界大戦という歴史の中で、鉄の街としてでだけでなく、軍都としても北九州は育っていったわけです。二発目の原子爆弾の当初の目標が長崎ではなく、北九州であったというのは有名ですが、やはり標的になるくらいの軍都と認識されていたのでしょう。

2012年9月6日木曜日

遣清野戦病院

 小倉日記の中には、(遣清)野戦病院という言葉が数度出てくる。時代は日清戦争後5年くらい経った頃なので、その際の野戦病院を指しているのだろう。しかし、野戦病院のイメージは、前線近くにあるような感じがするのだが、小倉の地は清国から近いので当時野戦病院があったのだろうか。

 記載からは北方あたりか香春口周辺に存在した病院と思われるが、当時の地図がなければはっきりしそうにない。衛戍病院以外に、軍に関係のある病院が他にもあったということなのだろうか。

2012年9月5日水曜日

鷗外橋


 鴎外が最初に住んだ鍛冶町の家から、まっすぐ小倉城の方へ歩いていくと、紫川に鴎外橋と書かれた橋がある。写真の中央の林の向こうに、僅かに小倉城が見えるが、鷗外はそこのすぐそばに登庁していた。

 但し鴎外が実際に登庁の際にわたっていた橋は、この橋より下流にある常盤橋である。

 この鴎外橋は北九州が橋整備事業を行った際に、鷗外を記念して新たに作ったものである。

 なお文章中に、鷗外と鴎外を使用するが、鷗外だけを使用すると文字化けする場合もあると思い、わざと両方を混ぜて使用します。

2012年9月2日日曜日

初日は?



 小倉城跡にあった小倉衛戍病院が、小倉中心地から南に下った、北方に移転したのは、鷗外赴任の数ヶ月前。その後の陸軍病院時代にはかなり広大な地域が病院として利用されていたようなので、小倉医療センターの現在地と完全に重なるかどうかはわからない。しかし、北方に移転した衛戍病院鷗外が始めて訪れたのがいつなのか、少し興味がある。

 6月30日 「始て小倉衛戍病院分院に至る」

これは、小倉城跡に存在した分院の方を訪れたものと思われる。

 7月14日 「始て北方に至る。歩兵第47連隊及工兵営を看る」 衛戍病院にかんする記載はなく、寄ったかどうかわからない。

 7月15日 「又北方に至る。野戦砲兵及騎兵營を看る」 やはり病院に関する記載はない。

 8月2日 「北方に至る。第12大隊營及小倉衛戍病院を看る。」 ここに初めて小倉衛戍病院の文字が見える。



 小倉日記を見る限りは、上記8月2日が小倉衛戍病院初日と思われるのだが、本当にそれ以前には訪れていないのかどうか確信が持てない。小倉衛戍病院日誌のようなものが現存していれば確認が可能かもしれないが、日誌があるかないかもわからない。

2012年8月31日金曜日

常磐橋

 1900年頃、紫川下流に架けられていた橋は、常盤橋だけのようだ。旧長崎街道の起点である室町という当時の中心地で川を渡れるようにかかっていたのだろう。現在その地に常盤橋としてかかっているものは、平成7年に木の橋として作られたものである。


 現在の橋が昔の橋と似ているのかどうかはわからない。鷗外登庁の際には、常盤橋を馬車などに乗って通っていたとされているので、そこそこの広さがあったのではないかと思うのだが、そうすると現在の橋は少し幅が狭いような気がする。


 最初の下宿地の鍛冶町より、2番目の下宿のあったとされる京町のほうが、常盤橋に近い位置にある。この地で生活するうちに、より通勤に便利な場所へ居を移したということかもしれない。

2012年8月29日水曜日

旅館 達見(たつみ)


 

「達見に投宿す」と鴎外の小倉日記に記載がある。小倉に到着した日、6月19日のことである。小倉駅近くの旅館、達見に宿泊したことがわかる。最初の下宿に入るのが24日のことなので、そこに5泊したことになる。


 

この旅館は、室町という当時の小倉の中心地域にあり、その後玉水旅館と名前を改め現在も存在するとの記載を見かけた。そこで、その界隈を散策してみたが、どうしても玉水旅館が見当たらなかった。現在室町といわれる地域はごく限られているので、存在すれば気がつくはずである。


 

その後ネットで調べると、どうも他の店舗になっているようである。今度、そこを訪ねてみようと思う。なにか面白い話が聞けるかもしれない。


 

2012年8月26日日曜日

常盤橋の広告塔

紫川にかかる常盤橋のたもとには

円形の広告塔が建てられていたことを

鷗外は「独身」の中で書いている


これは当時のヨーロッパにあった塔をモデルにしたもので

このようなものは日本で初めてのものだったようだ


鷗外は常盤橋を渡って

登庁していたとされるので

しょっちゅうこの広告塔を見ていたのと

その珍しさから小説の中でも描いたのであろう

鷗外が留学していた頃のドイツでも

当時パリなどで使用されていた広告柱が存在していたようなので

懐かしさも感じたのかもしれない


 

現在は当時の三分の一の大きさの広告塔を再現し

当時の面影を忍ばせている


2012年8月25日土曜日

陸軍第12師団


1898年に結成された

陸軍第12師団の司令部庁舎は

小倉城本丸跡に建てられた

その当時の正門の柱が今も残っている



第12師団の軍医部長を務めた鴎外も

この門を通って司令部に

登庁したとのこと







だが小倉城内を歩いても

わたしが知りたい衛戍病院分院の場所

がどこだったかを示すものは見当たらない

古い地図などがあるとわかるのかもしれない



2012年8月23日木曜日

隠流

鴎外の小倉時代を
沈黙時代と定義されたことがある
中央文壇への文章発表などが少なかったことなどから
そのような評価がなされたのであろうが
第二次世界大戦後にそれまで行方しれずになっていた
小倉日記(鴎外の小倉居住期間の日記)が見つかり
その研究がなされ
けっして沈黙していたわけではないことがわかっている

もちろん中央から小倉への異動は
鷗外自身にとって心楽しまぬ点も多かったと思われ
赴任当初は「隠流(かくしながし)」の号を使ったりしていたらしい

しかしいかなる人のいかなる人生においても
無駄となる時間はないものであり
鴎外においても小倉時代は
多くの出会い 多くの思索を通じ
次の人生への大きな転機となった時期とされている
二番目の妻を迎えたのも小倉時代である

2012年8月21日火曜日

小倉衛戍病院跡



 小倉医療センターの正面入口近くに、小倉衛戍病院跡と書かれた
碑がある。小倉営所病院、小倉衛戍病院、小倉陸軍病院、
国立小倉病院、国立病院機構小倉病院と名称や機構が変わり、
現在の国立病院機構小倉医療センターの名前となった。


 鷗外が小倉に赴任してきた頃は、小倉衛戍病院。衛戍地というのは
軍隊が長期間駐留する場所を示しており、その地に軍人の負傷や病気を
対象として治療を行っていた病院が衛戍病院ということになる。

 当時どれほどの規模の病院として運営されていたのかまだ調べていないが、
鷗外は病棟間を馬で移動したとも思われるので、ある程度の広がりのある敷地であったのではないだろうか。現在の小倉医療センターは、以前に比べると随分
敷地が狭くなったようであるが、それでもかなりゆったりした空間を持っている。



2012年8月19日日曜日

小倉駅

 鷗外が赴任してきた時に降り立った小倉駅は、現在の小倉駅と西小倉駅の間にあったと言われる。到着後の4~5日は室町にある旅館に宿泊しているところから見て、室町当たりにあったのではないかと思われる。

 ネット上で見つけた下の地図をよく見てみると、やはり停車場が室町あたりにある。2012年現在、量販家電店がある辺りのように見える。当時の小倉の中心地は、室町あたりだったようである。

 小倉城のあるあたりは、宣伝が印刷してある。おそらく軍関係の施設があるために、地図上には詳細を記載できなかったのだろう。

 また、中心を流れる紫川には、橋が一本しかかかっていない。鷗外が在任中に住んだと言われる二ヶ所は、いずれも川の東側。出勤の際には必ずこの橋を渡ったのであろう。




官僚

 小倉医療センターの源流をたどれば、小倉営所病院に至る。これは、1875年に歩兵第14連隊の医療機関として、小倉城内三の丸に開設されたものである。1888年に小倉衛戍病院と改称されている。

 日清戦争後、ロシアの南下政策に対抗する必用から、1898年に師団数が6から12に増やされている。そのひとつが小倉の第12師団。鷗外はその第12師団の軍医としての着任である。着任の数ヶ月前に、衛戍病院は小倉城内から北方に移され、城内の病院は分院とされたようである。

 鷗外はあくまで軍医であり、衛戍病院に赴任したわけではない。臨床医ではなく、エリート厚生官僚というイメージである。その主業務は軍にまつわることであり、出勤は小倉城内の軍司令部のようである。実際小倉日記に衛戍病院の名前が出るのは、司令部ちかくにあった衛戍病院分院が先である。

2012年8月18日土曜日

鱒渕ダム

 多くの軍人が駐留するには、飲料水の確保も重要である。軍医としての鷗外(森林太郎の名を使うべきかもしれないが、鷗外に統一する)は、衛生的な水の確保のための視察も行ったとされている。そして水源から水道を引くことまで考えていたらしい。

 小倉の街の中心を、紫川が流れている。街中の地下水では塩分を含む上衛生上問題ありと考えた鷗外は、この紫川上流まで水質を見に行ったようだ。そしてその源流近くから取水することを提案しようとしていたとされる。



 現在その地の辺りには鱒淵ダムができている。鷗外とその建設には直接結びつかないかもしれないが、水源として着目した鴎外の考えがそこにつながっていると考える人もいるようだ。

 鷗外との縁は、伏流となったのち、現在の小倉(北九州)に現れ、影響を及ぼしているのかもしれない。


2012年8月17日金曜日

北方衛戍病院日誌

 鷗外関係の書籍を少し見ていると、北方衛戍病院日誌というのが出てくる。もともと小倉衛戍病院というのは現在小倉城址のあるあたりにあったとのことだが、鷗外が赴任する二ヶ月ほど前に北方(現在小倉南区にある)に移転となっている。それまでの病院は分院として存在したようだが、現在の小倉医療センターは北方衛戍病院の流れを引き継いでいると推測する。
 この北方衛戍病院日誌なるもの、少なくとも現在の病院の図書館にはなさそうである。北九州市立図書館にでもあるのかどうか、今度聞いてみようと思うが、100年以上昔の記録が、どこかに残っているものだろうか。

ドイツ語

 わたしが医学部に入った頃は、外国語としてドイツ語が必須であった。医学の主流は英語圏に移っていたとはいえ、普段の医学用語としてもドイツ語が多く紛れ込んでいた。ある国の文化や技術などを学ぶには、その国の言語を学ぶ必要がある。
 明治初期に起こった普仏戦争。フランスが優位との戦前の予想を覆し、圧勝したのはプロシア。日本の陸軍は、その軍のあり方の範をドイツに求めることになる。当然ドイツ語の能力が高ければ重用されたと思われる。
 鷗外はそのドイツ語能力が極めて高かったと言われる。彼のしたためた独逸日記によれば、ドイツに到着したとき、周囲の会話が聞き取れたとの記載がある。東大にドイツ人の教授がいたとはいえ、ほとんど生のドイツ語に接する機会がなかったのではないかと思われる時代に、このことは驚異である。
 そして、鷗外が小倉に赴任しているあいだに行った、軍関係者としての大きな功績に、クラウゼヴィッツというプロシア軍事学者の戦争論翻訳がある。鷗外研究者の中には、ドイツ語に極めて堪能な鷗外にこの翻訳をさせるために左遷人事と取られるような、小倉第12師団軍医部長任命を行ったと指摘する人もいるようだ。

37歳

 森林太郎が、軍医部長として小倉に赴任したのは37歳のとき。現代の感覚では随分若く感じる。だがその年齢で、すでに軍医としては頂点に近い位置にまで到達していたのは、その才だけでなく不断の努力があったからであろう。

 木下杢太郎が鷗外没後彼を評して、「鷗外の一生涯は、休無き精進であった」と述べたとされる。軍務、医療、公衆衛生、文学、哲学、語学、芸術など広くその活躍の場を持ちえたのも、日々の蓄積無くしては不可能であったろう。

 さらには、才能や努力だけでなく、細やかな感性も有していたのだろう。でなければ、翻訳や芸術論などをなしえたはずは無いと思う。

 夏目漱石に比して、なんとなく近寄りがたい雰囲気を感じるが、その足跡をしばらくの間見つめてみたい。

生誕150年

 この場を開設してから、随分月日が経ちました。
このブログを立ち上げたこと自体を失念していました。

 今年(2012年)は、森林太郎が生まれて150年の年と聞きました。この機会に、小倉医療センターと関係のあった森鷗外についての忘備録風ブログを作ろうかな、などと考えながらPC上のファイルを整理していると、このブログがお気に入りのなかに埋もれていました。気を取り直して、再開したいと思います。

 写真は、国立病院機構小倉医療センターの地域医療研修センターです。医療に関係する集会などに利用されています。

 このセンターの名前は「鷗(かもめ)」と命名されていますが、それは鷗外の名前にちなんで付けられたものです。この由来を一般の方だけでなく、職員の中にも知らない人が出てきました。


 由来なんてどうでもよい、という方もおられるでしょうが、八面六臂の活躍をした森鷗外について学んでいけば、きっと得るものは大きいでしょう。