2012年11月5日月曜日

左遷?

 鴎外が陸軍軍医監に昇進し、第十二師団軍医部長と決まったのは明治32年6月8日付けで、その辞令を受け取ったのが同月10日、小倉に向かい新橋を出発したのが16日とのことです。随分慌ただしいものですが、これが普通だったのでしょうか。

 この小倉への赴任が左遷なのかどうかは、多くの人が論じていますが、最終的には陸軍軍医総監となり、陸軍省医務局長という陸軍軍医としてのトップまで上り詰めたわけですから、そこへ至るまでの一過程ということでしょう。

 鴎外の心情としては、やはり都落ちだったと思われ、母親に当てた手紙では左遷と考えていることが語られていたとのこと。軍医としての出世というだけでなく、中央の文壇から離れ、慶応義塾での解剖学や美学の講義はできなくなりという具合ですから、心楽しまぬのも当然でしょう。ただ建前としては、人事権をもつ小池局長の心労をいたわったり、望外の栄転などと語ったりしていたようです。

 一方で、当時の小倉はロシアの南下政策に対抗するための重要な兵站地(前線に必要な物資を送り出す基地)としての発展が重視されていた場所です。そこでの軍医部長が、衛戍地としての精度を上げるために大いなる責任を課せられていたのも事実でしょう。その点では、やはり能力を認められ期待されての栄転ともいえるのかもしれません。

 辞令交付後に辞職すら考えたといわれる鴎外だが、小倉赴任後に軍医部長としての職務に励んでいたのは、やはりその重要性を認識したからではないでしょうか。

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